ケータイ辞書JLogosロゴ 与原村(近世)


福岡県>苅田町

 江戸期〜明治22年の村名。豊前国京都【みやこ】郡のうち。小倉藩領。新津手永に属す。村高は,「正保国絵図」では伊与原と見え180石余,「元禄国絵図」185石余,「天保郷帳」292石余,「旧高旧領」326石余。元和8年の家数42・人数107(男55・女52),牛12・馬5,牢人がいた(人畜改帳)。慶長年間宇都宮氏の旧臣神織部が細川氏に願い,当地の開墾を15戸で始め,同16年に村が成立したと伝え(京都郡誌),「与原草分ケ十三カタ」の称が残る。検地は,元和4年・寛永元年・同6年(郡典私志)。享保飢饉の餓死者は153人(開善寺過去帳)。享保年間塩田が成立し,製塩が始まった(小倉藩租税法)。幕末にも南隣行事村の玉江彦右衛門以下145人の出資で20余町(うち塩田7町)の与原新開が成立。字塩塚の塩竈神社はこの頃陸前の塩竈神社を勧請というが,祭神は猿田彦命。地内では庚申および猿田彦の信仰が盛んで,白石地区の月ケ浦には十数基の庚申塔が並立している。文化10年7月25日雷鳴豪雨で人家14軒倒壊,死者を出した(中村平左衛門日記)。字御所山の白庭神社は御所山古墳(文化13年石室露出)上にあり,「豊前志」では毘沙門天としている。同境内の天一神(下崎村の祠官重村栄孝の創教)の祠は,苅田【かんだ】築港線工事の時,尾倉の丸山古墳から移したもの。毎年2月12日には福焼(ドンド焼)祭が行われる。明治3年の戸数205・人口948(男451・女497)。同18年の地積は田89町余・畑22町余・宅地6町余(京都郡誌)。小学校は明治6年里仁小学校として発足,同7年教員2,生徒男100・女18。同9年旧藩の倉庫を譲り受け松原の地に移り,6か村の児童が通学。同年10月8日乃木希典は当村を通過,「青松ノ間道ノ右側ニ一ノ西洋形ノ家屋,築造未タ半途ナル者ヲ見ル……小学校ナリ。察スル処疇昔小笠原氏ノ地方米倉(塩倉)ヲ変造スル者カ。外部ハ上部ニ硝子窓アリ。屋脚ハ木ヲ積テ以テ壁ヲナス。戸数凡百有半,神田(苅田)ニ比スレバ稍潤沢アルヲ覚フ。然ルニ尚富区トハ云ガタシ。仏剳アリ。妙道寺(明増寺)ト云フ」と日記に記している。同17年柏木勘八郎以下5人の出資により白石新開(のち毛利新開)57町(うち塩田50町)が完成(京都郡誌)。俚謡にも「嫁にゆくとも与原にや行くな,昼は浜もち夜は塩焚く」「与原苅田の塩売見なれ,どこの門でもしおしおと」がある。同22年小波瀬村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7444154
最終更新日:2009-03-01




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