ケータイ辞書JLogosロゴ 板木村(近世)


佐賀県>伊万里市

 江戸期〜明治22年の村名。松浦郡のうち。はじめ唐津【からつ】藩領,慶安元年幕府領,同2年からは唐津藩領。板木組に属し,その組元村。「慶長国絵図」に「板木村 波多津ノ内」と見える。村高は元和検地高179石余(伊万里市史),「正保国絵図」では129石余,「天保郷帳」「旧高旧領」では192石余。文化年間頃の田畑高181石余,古高129石余,畝数11町余,年貢率は5割7厘,家数22・人数114(男60・女54),馬6・牛3,吉祥山浄光寺は禅宗曹洞派で本尊薬師立像がある。氏神田島大明神の祭礼は11月7日(松浦拾風土記)。またほぼ同時期の板木組差出帳には,本田高181石余・11町余,うち永川成・新溜下半高引3石余,新田増高15石余・1町余,うち定引4石余とある。石盛は上田2石6斗7升,上畑1石4斗5升。ほかに口米・夫米・樹木代米・真綿代銀・漆代銀の諸役,小鳥・旅出櫨の運上が課されていた。年貢米は行合野土場まで陸送され,波多川を川下げされた。家数26・人数145(男83・女62),馬18・牛6。溜池5(灌漑面積14町余)・井磧6(灌漑面積7町余)・家居根山29。氏神は田嶋大明神・天神社(2社)。八幡社はいずれも茅葺で,宮司は徳須恵村社人堤伊勢。曹洞宗黒岩村医王寺末吉祥山浄光寺跡がある(市丸家文書/伊万里市史)。「松浦古事記」には往古松浦党波多氏の家臣濃崎右仲平本久が当村のうち100石を知行したと,「松浦記集成」には松浦党隈崎四郎(一説に素人)が当村に居住した,あるいは久我玄蕃が当村の法行城に居城したと見える。「唐津拾風土記抄」に当村白旗天神は源頼政の霊を祀るとある。また法行城の麓に鐘淵【かねがぶち】と称する深淵がある。往古浄光寺の境内に霊鐘があったが,天平勝宝年間のある夜丑三つ時頃異様な童子が鐘を持ち上げ深淵に沈めた。髪縄をもってしても鐘は引き上がらず,浪が逆立ち老翁が現れ,「鐘は竜宮の宝器を暫時貸与しただけであるから再び水底に納めたり」と述べ消失したとの伝承がある。明治4年唐津県・伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では津留村の枝村として見え,「郷村区別帳」では枝村に中山村・津留村・木場村・田代村があり,反別は69町余。「明治11年戸口帳」によれば1村として見え,戸数39・人口189。明治11年西松浦郡に属し,同22年大岳村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7444398
最終更新日:2009-03-01




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