ケータイ辞書JLogosロゴ 伊万里(中世)


佐賀県>伊万里市

 鎌倉期〜戦国期に見える地名。松浦郡宇野御厨のうち。元久2年正月9日付の関東下文案に「肥前国宇野御厨内伊万里浦并津吉嶋両所 補任 地頭職事 源重平」とあり,「伊万里浦」の地頭職に松浦党一族で源披(松浦党党祖源久の孫)の小舅にあたる源重平が補任されている。次いでこの地は源披の知行するところとなったらしく,建保6年8月には披が子息上に「伊万里浦」などを譲与,さらに源上(さいねん)は,子息で伊万里氏の祖にあたる源とむる(留)へと,この宇野御厨内の所領を譲与した。寛元4年8月13日付の上から留への譲状には「うのゝ御くりやの御しやうのうち」として,「いまりのうらの四郎丸」なる名田の名が見える。同名は代々伊万里氏一族によって相伝されており,文永6年7月20日,留から子息の勝へと譲られた。同譲状中には「在ひせんのくにうのゝ御くりやの御しやうのうち 福島并伊万里のうらの四郎丸・光重名・恒吉名・武末のみやうの田畑,田平のうちのかまたのあはあをさきかいふちの事」とあり,つづけて「光重名 伊万里三坪参段参杖,枝須里三坪参段参杖」と見える。ここには「伊万里」のほか,「岐須里」「山口里」「加志田里」「長野里」「波多道里」など古代条里制の名残の里名が見え,伊万里という地名も条里制の固有里名の遺存したものであることがわかる。以後,正中2年2月3日には「肥前国宇野御厨庄伊万里浦脇田村内武末名田畠屋敷」が沙弥如性(源勝)から親類の善寿丸(源授)へと譲られており,さらに源授から譲り受けたと思われる源満の建武3年2月10日付去渡状案にも「うのゝ御くりやのしやう,いまりのうら,たけすえみやうのうち」と見える(伊万里文書/平戸松浦家資料)。この間,「伊万里」「伊万里浦」の名は,弘安8年8月19日付,同9月9日付の肥前国守護北条時定書下,あるいは乾元2年1月4日付の鎮西御教書などに見られ(松浦山代家文書/佐史集成15),下っては,永禄11年4月晦日付の有馬義純書下,天正年間ごろと推定される後藤家信書状(鶴田家文書/佐史集成7),竜造寺隆信書状(多久家文書/佐史集成10)などにも見られる。なお,戦国期,明応年間ごろ少弐政資が伊万里山代を討った際の年未詳6月29日付少弐政資書状写には「伊万里城」が見える(河上宮古文書写/佐史集成2)。天正4年,伊万里氏は竜造寺隆信に降り,当地方一帯はやがて鍋島氏の領するところとなる。文禄・慶長の役の鍋島直茂軍は伊万里を根拠地とした。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7444460
最終更新日:2009-03-01




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