ケータイ辞書JLogosロゴ 伊万里町(近世)


佐賀県>伊万里市

 江戸期〜明治22年の町名。松浦郡のうち。伊万里村・伊万里津ともいう。佐賀本藩領。伊万里郷に属す。村高は,「天明村々目録」では378石余,「天保郷帳」では414石余,「旧高旧領」では60石余。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」ともに町分として,伊万里立町・伊万里中町・伊万里下町・伊万里新町・有田町・浦町・黒尾町・土井上町・浜町がある。また貞享4年改・明和9年改補の郷村帳には新町・上中町・中町・上下町・中下町・下町・土井上上・土井上下・有田町・立町・幸善町・黒尾の名が見える。「慶長国絵図」では「伊万里」と記され,「正保国絵図」には「伊万里町」とあり,「伊万里津ハ遠浅,舟大小五六十艘程留ル。塩満ニ舟入舟掛吉,塩引候時ハ舟入ズ」とも書かれている。貞享4年改・明和9年改補の郷村帳には「伊万里町,今津ニ入」と記され,領内諸津の1つとして伊万里津が掲げられ,津内各町が付記されている。佐賀藩は伊万里に元禄3年伊万里心遣役を任命し,手頭を発して厳格な行政を求めた。伊万里津には藩用船の御船蔵が設置され,国産陶磁器買付などの諸国商人の往来出入が激しかった。寛政頃と推定される記録に「伊万里津石高并竈人数御尋有之候半ハ,答石高凡五十石,竈四百六拾軒,人弐千人余」とあり(前田家文書),文政年間の「伊万里歳時記」巻2には「伊万里津之儀ハ千軒在所ト申儀ハ諸人之口碑ニ申唱候ヘ共,内実ハ五百軒余ならで無御座」と記されている。また同書には上土井町・下土井町・浜町について「三町之儀ハ新田村懸ニ御座候処,先年郷津ニ被仰付置」とあり,新田村のうち田端・袋町・玄海小路【げんかいくうじ】・堀端,町裏村のうち門外【もんぼか】の計5か所を新たに郷津とし津内同様の取扱いを要望していることが記されている。なお万延元年仕立の伊万里津図には,上記個所は郷津として描かれ,これらはやがて今町となる。津内各町にはそれぞれ町役1名,津全体には別当1〜2名,ほかに町年寄4名前後置かれた。伊万里の名は焼物とともに知られ,肥前焼物の積出港として繁栄した。寛永年間頃には伊万里町に下ってきた大坂商人と組んで有田皿山の「山請」(一手請負)を企図した伊万里商人東島徳左衛門の名が知られる。当時上方では「今利焼」(毛吹草),「今里焼」(隔蓂記)の名が用いられ,延宝年間頃になると大坂問屋のうちに「肥前いまり焼物問屋」が6軒あり,伊万里焼の呼称が定着しつつあることが察せられる。近世前半期の伊万里焼の記録は失われているが,近世後期の状況は知ることができる。陶商数は「伊万里歳時記」巻2で80人(天保期),同書巻3で91人(明治5年)を数え,これは伊万里町の総戸数のほぼ1割にあたる。天保6年の伊万里積出しの陶(磁)器は約31万俵(うち4万6,000俵は大村領波佐見,平戸領木原・三河内・江永,唐津領椎ノ峰の産出)で,積出し先は松前から日向までの国内各地にわたる。積出しにはおもに芦屋・山鹿・久家・船越の各浦の筑前商人や紀州(宮崎)商人,ほかに伊予・出雲・下関・越後などの商人(船頭)が従事した。これらの「旅商」は,陶商に止宿滞在するほか,国別に定められた宿屋に泊まって取引きを行った。維新後は帆船から汽船による輸送へと転換するが,伊万里陶商の担う役割には変化はなかった。しかし明治後期の鉄道敷設は,朝鮮市場への進出を別とすれば,伊万里陶商の地位を漸次低落させ,伊万里港からの焼物積出し高の減少や伊万里港出入船舶の減少によって陶商の廃業・転換が相次いだ。明治4年には東町・新町・上中町・中町・幸善町・上下町・立町・中下町・下町・上上井町・下上井町・浜町・搦町・今町・有田町・東黒尾町・西黒尾町の17町を数え,竈数969(重松家文書)。明治4年佐賀県・伊万里県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では枝村に,東町・新町・上中町・横町・中町・上下町・中下町・下町・上土井町・搦町・浜町・今町・堀端・袋町・田端・有田町・立町・幸善町・黒尾町・川端・山城町・下土井町がある。「郷村区別帳」では反別8町余。「明治11年戸口帳」によれば戸数948・人口4,029。明治11年西松浦郡に属し,同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7444461
最終更新日:2009-03-01




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