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浦町(近世) 江戸期~明治22年の町名伊豆国君沢郡のうち狩野川の支流大場川中流右岸に位置する町名の由来は,当地が江戸期に東海道筋より北側にあったことにより裏町・浦町と称されたことによるという東海道三島宿21町の1つ幕府領元治2年の石高65石余,戸数80・人口321(三島町誌稿)また,宗門人別取調書上目録によれば,慶応3年の石高73石余,戸数73,うち本家50・地借9・店借14,人口305(三島市誌)寛文年間の伝馬役負担は86間・上り人足85人が課された町内には安旅籠が多く,飯盛女がかなりいたという文化・文政の頃,横山玄与は当町で医業のかたわら儒学・算学を教える横山塾を開いた小規模な私塾であったが,この門人でのち千之塾を開設した福井雪水が出た神社は浦島神社明治元年韮山県,同4年足柄県を経て,同9年静岡県に所属同3年の石高63石余(三島町誌稿)明治22年三島町の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
浦町(近世) 江戸期の町名大山城下のうち大山城は元和8年廃城,同年庄内藩領,慶安2年大山藩の城下となり,寛文9年からは幕府領城下東部に位置する寛永19年の検地帳(大山町史)によると当町22名の石高所有状況は,0~1石12名,1~5石4名,5~10石1名,10~20石5名寛文9年御家数并人数調(栗本文書/大山町史)で家数22軒弘化3年家数人数寄帳(大滝文書/大山町史)の家数46うち百姓35・水呑10,人数178うち男83・女95,馬8明治4年人馬人別家数調(大山町史)の家数42軒・人数106,雄馬10同10年の職業別戸数(同前)は,農業10・工業13・商業5・雑業15・神官僧侶1の計44弘化4年当町の3軒を含む5軒の茶屋から稼業再開の嘆願書が陣屋代官へ提出されている寺院に慶長7年創立の浄土真宗(大谷派)勝安寺がある同寺の開基は武田信玄の重臣で後仏門に入った藤田丹波守勝安... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
浦町(近世) 江戸期の中津城下の町名裏町とも書いた下辺【しもべ】と称された東北郭外の下級藩士の組屋敷地奥平氏時代59町の1つ伊能忠敬の「九州測量日記」には蠣瀬【かきぜ】組下小路浦村新浦とある臨済宗妙心寺派延命山養寿寺は,寛文3年下野国宇都宮で,奥平昌能が殺した山伏の冥福を祈るため建立され,大慈院と称したが,奥平昌成によって当地に移建され,延享2年改称地名は現在も中津市中津地区の,通称地名として存続... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
浦町(近世) 江戸期の町名伊万里【いまり】町のうち裏町とも書くが,所在は明確ではない記録中に「今朝明六ツ時比より浦町より出火有之,裏町中焼,夫より下町助十殿・儀太郎,上下町忠兵衛殿・喜三郎殿迄ニ取リ切,云々」と町名が見え(前川家日記),「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」にも浦町と見える... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
浦町(近世) 江戸期~明治22年の小字名滋賀郡のうち江戸期は膳所【ぜぜ】城下町別保【べつぽ】村のうち地名は東海道筋の宮町の裏側にあることに由来するが,「浦町」の字が多く用いられた明治5年滋賀県に所属同22年膳所村別保の小字南浦町・北浦町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」