ケータイ辞書JLogosロゴ 嬉野皿山(近世)


佐賀県>嬉野町

江戸期の村名藤津郡のうち内野山村・内野皿山ともいう嬉野盆地の北部,塩田【しおた】川の支流下宿川の源流付近に位置する佐賀本藩領嬉野郷に属す「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」とも1村として見える村高は「天明村々目録」で嬉野村322石余,「天保郷帳」で同373石余のうち嘉永2年の村絵図によれば,北側の山地と中央の山地の間を西から東へ2本の川が流れ,上流域には畠が多く,他地域には田地が多い村内には池が多く,2本の川の流域に3か所,ほかに20余りの小さな池が散在している集落は南東部の平地に50軒余が見える集落東寄りの地に口屋番所と見える一角がある当村は有田皿山代官所の支配下では大きな皿山で,湯宿に通ずる道に同番所が設置されていたという皿山の歴史は,慶長3年に鍋島勝茂が朝鮮の役に際し連れ帰った韓人陶工が開窯したことに始まるという(皿山代官旧記)毎年正月には当村より床飾の陶器を献上し,藩よりは納め窯の燃料が支給され,また年に米100俵・金300両の資金が貸与えられていた宝永年間の戸数は170〜180,4つの登窯があった(嬉野吉田郷土誌)承応2年の運上銀は8貫115匁(佐賀藩小物成算用帳)正徳年間より天草石を移入して白磁を焼く明和年間には疫病が発生し,加えて凶作で戸数は半減し,2窯は廃窯した(肥前陶磁史)天明4年には窯焼は7戸に減り,藩の援助を受けて再興を図った明治維新当時は16戸「皿山代官旧記覚書」によれば,村役人として庄屋・咾が見えるなお窯業の他にわずかの田地を焼山の道徳堤から取水して耕作していたが,不景気の時には禁令を犯して間道を抜けて大村領内の皿山に出稼ぎに行った娯楽も制限され,大村領への芝居見物の禁止令がたびたび出されている(皿山代官旧記)寺院には真言宗正覚寺があったが廃寺となり,寺子屋が開かれた開窯後寛永17年に死亡した韓人陶工の墓がある「明治7年取調帳」では下宿村の枝村として見える「明治11年戸口帳」によれば,下宿村のうちに「内野山村」と見え,戸数91・人口398
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7444570
最終更新日:2009-03-01




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