ケータイ辞書JLogosロゴ 小田村(近世)


佐賀県>江北町

 江戸期の村名。杵島郡のうち。佐賀本藩領。横辺田郷に属す。村高は「正保国絵図」では924石余。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」に村名が見える。村域の北部を上小田村,南部を下小田村と称した。地内に長崎街道小田宿を含み,小田町とも呼ばれた。小田宿は長崎街道二十五宿の1つで,東の牛津【うしづ】宿と西の鳴瀬宿の中間に位置する。この宿駅から南下して白石【しろいし】郷・鹿島城下を経由して諫早【いさはや】に出る長崎脇街道が通じる。元禄年間長崎オランダ商館医ケンペルの旅行記に当村のことが「鳴瀬や追分の部落を通って小田村に着き,そこで泊まった。我々は今日,彼杵【そのき】から小田まで十一里を旅した。この村の手前で,我々は子牛の頭の形をした仏像(馬頭観世音)の彫刻が台上の厨子の中にあるのを見た。……小田村の右手には,他の場所より見事な田圃があったが,このことは一般に肥前国が米の収穫の最も多いことを証明している。ここでは十の品種を数えるが,そのうち最上の米は大村でとれ,将軍の食膳にのぼる。そうは言っても加賀や肥後は地味が豊かなことでは,肥前の田圃に少しもひけをとらない」と記されている(江戸参府紀行)。また文政年間,長崎オランダ商館医シーボルトが残した旅行記にもこの観音堂のことについて,「ビルガー君と私は一人の番所衆と通詞の弥七郎および二,三人の門人を伴って一行に先だって小田まで行った。有名な神木をゆっくり視察するためである。それは大きなクスノキで村の入口にあり,広く枝を張り葉の密生した梢がある。幹は枝のところまでとどく木造の祠で隠されている。その祠は両部神道の混交した建築様式に属し,沢山彫刻が施され,波状の枝葺の屋根がついていた。……祠の中には三つの頭があって手が何本もある仏像が刻まれているのが見える。前に置かれた木製の小さい台には供物の道具や花や香をたく容器や灯明がある。馬頭観音,すなわち馬の頭をした守護仏である」と記されている。小田宿はこの馬頭観音で知られ,西方には鎮守の天子社がある。観音堂の北方数十mのところに本陣岩見屋があり,その庭園は今も見る人を楽しませる名園の1つである(江北町史資料)。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」では上小田村・下小田村として見え,上小田村の枝村に小田宿がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7444788
最終更新日:2009-03-01




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