ケータイ辞書JLogosロゴ 川原村(近世)


佐賀県>伊万里市

 江戸期〜明治22年の村名。松浦郡のうち。はじめ唐津【からつ】藩領,慶安元年幕府領,同2年唐津藩領,文化14年幕府領豊後国日田代官所支配地,文政3年唐津藩預り地を経て,天保13年からは日田代官所支配地。大川野組に属す。「慶長国絵図」には村名が見えない。村高は,「正保国絵図」では135石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに235石余。宝暦年間頃の村高は184石余,反別・分米は田方9町余・124石余,畑方5町余・53石余(木下家文書)。文化年間頃の田畑高235石余,古高135石余,畝数20町余,年貢率は6割1分3厘から1割まで,家数53・人数237(男128・女109),馬25・牛1,威鉄砲1(松浦拾風土記)。往古河原四郎遊が当地に居住し知行した(松浦昔鑑)。唐津往還(唐津〜武雄間)の藩境に当たるため番所が設けられ,郷足軽大川野組が番人を勤めた。良質の陶土に恵まれ,高麗人が当村や田代村に居住していた頃は瓶などを焼いていたが,近世初期李朝系陶工の手で松浦古唐津系と称される陶器が焼かれた(中里家文書)。甕屋ノ谷・焼山など各所に古窯跡がある。「松浦拾風土記」には前岳・雨山岳が見える。「明治元年松浦郡大概尽」によれば,村高235石余,反別は田方10町余(うち両毛作9反余)・畑方10町余,家数62・人数269(男116・女153),溜池16・井磧1。慶応2年長崎奉行所支配地,同4年薩摩藩支配地を経て,明治3年長崎県の管下となる(伊万里市史・大川村誌稿)。同4年厳原【いずはら】県・伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では1村として見え,「郷村区別帳」では笠椎村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば1村として見え,戸数68・人口307とある。明治11年西松浦郡に属し,同22年大川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7445042
最終更新日:2009-03-01




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