ケータイ辞書JLogosロゴ 久原村(近世)


佐賀県>伊万里市

 江戸期〜明治22年の村名。松浦郡のうち。佐賀本藩領と小城【おぎ】藩領。山代郷に属す。「慶長国絵図」には楠久【くすく】のうちに見える。村高は,「正保国絵図」「天明村々目録」ともに322石余,「天保郷帳」では361石余,「旧高旧領」では佐賀本藩領153石余・小城藩領308石余。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」ともに小村に上場村・下場村・香田村・羽瀬村・原村がある。安政2年郷村帳では,高田・堀田・原・北原・上場・下場・大波瀬・小波瀬・打峠の名が見える。城山の西側に,寛文の頃小城藩士馬渡百郎左衛門によって田代池が築かれ,当村の斜面の灌漑を安定させた。大波瀬搦や小波瀬搦は宝暦・明和ころの干拓地。小城藩は当村に目代屋敷・代官所など,波瀬には海上見張番所を置いた。近世の小城藩政争の首謀者とされた富岡九郎左衛門(敬明)について「久原村居籠所所脇ニ新ニ本籠造営相成,永々居籠相成」とあり(慶応3年山本家日記),出獄は明治2年3月であった。当村の石炭掘りは化政期に至って盛んとなり,地元で消費されるほかに瀬戸内の製塩用として,近世末期には長崎へ移出された。明治3年の「山本家日記」には「二月ヨリ開発相成居候異人モリスと申者石炭山相始居候,只今之処立壺凡拾丈余掘入候由,業合ハ蒸気相立,皆器戒計りを以相行,誠ニ目を驚す」との記録がある。近世末期の小城藩領分の戸数260・人数920(山代郷小城藩支配地図)。佐賀本藩御山方分の戸数62・人数252(安政3年山代郷久原村人別竈帳)。明治4年佐賀県と小城県,同年伊万里県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」ともに楠久村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば1村として見え,戸数291・人口1,296。明治11年西松浦郡に属し,同22年西山代村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7445169
最終更新日:2009-03-01




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