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- 窪田(中世)とは
「窪田(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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窪田(中世) 室町期に見える地名入西【につさい】郡越生【おごせ】郷則次名【のりつぐみよう】箕和田【みのわだ】のうち初見は応永4年5月3日の鎌倉公方足利氏満挙状案写(法恩寺年譜/大日料7-2)で「吾那式部丞光泰申,武蔵国入西郡越生郷……同郷水口田内窪田弐段」とある窪田2段などの吾那光泰の所領の相続安楮が同挙状で管領斯波義将に取り次がれたまた「新編武蔵」所収「法恩寺年譜録」の応永33年6月19日の尼禅智(毛呂左近将監妻)寄進状写に,「入西郡越生郷則次名箕和田・窪田五段事……報恩寺永代寄進申訖」とあるまた毛呂氏の庶流である大谷木村の旧家大谷木与兵衛家に伝わる記録には,「豊後守季光は源頼朝に仕へて,毛呂・平山,……窪田の八カ所を領す」とある(姓氏家系大辞典)当地名は久保田と表記を変えて近世箕和田村の小名に引き継がれた現在の毛呂山町大字箕和田のあたり |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
窪田(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
窪田(中世) 南北朝期~戦国期に見える地名久保田とあるのと同一地名か豊後国速見【はやみ】郡八坂【やさか】下荘中村薬丸名のうち現在の杵築【きつき】市大字中の久保田に比定八坂川が曲流して真すぐ流下する最後の湾曲部右岸の付近康永3年7月6日の八坂下荘中村内忠氏知行坪付注文案に,「□(一)所窪田葺原半分〈西依〉当作之田地半分宛也」とあるのが初見(秋吉文書/大友史料6)応永元年1月の八坂下荘薬丸・秋吉両名主和与状写にも,薬丸・秋吉両名のうちとして,「萩原・木古志・山崎・久保田・筒井・森前・津留」が見え(同前9),天文6年3月15日の薬丸名坪付注文に,「〈久保田〉壱反」「〈久保田〉一所開」とあるのが終見(同前17)いずれも畠地分のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
窪田(中世) 室町期に見える地名入西【につさい】郡粟生田【あおうだ】郷のうち応永17年5月3日の前安芸守貞春寄進状(黒田文書/大日料7-14)が唯一の史料同寄進状には「奉寄進 武蔵国入西郡粟生田郷上村之内窪田弐段……円覚寺伝宗庵江,同所奉寄進之状如件」とあり,貞春の所領であった窪田2反と厚河【あつがわ】郷の末松名【すえまつみよう】田2反・畠1所が,浅羽【あさば】郷の浄願寺(現坂戸市大字成願寺)の塔頭曇華庵主の寄付の旨に任せて円覚寺(神奈川県鎌倉市)の伝宗庵に寄進された現在の県南部,高麗【こま】川右岸の坂戸市大字粟生田付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」