ケータイ辞書JLogosロゴ 下宿村(近世)


佐賀県>嬉野町

 江戸期〜明治22年の村名。藤津郡のうち。下村ともいう。佐賀本藩領と蓮池【はすのいけ】藩領。嬉野郷に属す。村高は「正保国絵図」「元禄国絵図」「天明村々目録」とも878石余,「天保郷帳」では1,005石余。「旧高旧領」では蓮池藩領分1,078石余,佐賀本藩領分255石余と見える。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」とも嬉野下村の小村とある。しかし,「蓮池藩請役所日記」「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」とも下宿村の名のみ見られる。当初は,下宿村とは長崎街道の宿の機能を果たす一角を指し,一帯は嬉野下村と把握されていたが,のちに村域一帯の呼称となったと思われる。嘉永5年の村絵図によれば,西の内野本(内野本村本)村から続く長崎街道は,当村の西で一旦南北へ向かうが,すぐに右に折れ,平地の中心部を北東に走り,彼杵【そのき】通と塩田通の追分となっている。宿としては,天明3年には「嬉野も上嬉野,下嬉野と僅かの町二か所有り」と湯宿と同規模の町並みであった(西遊雑記)。しかし文化3年には「下宿人家3町計り立ちつづきたる,皆農家にて茶屋もなし」となっていた(筑紫紀行)。なお同10年には伊能忠敬が本陣を置き,止宿している。当村は過去には湯宿より繁栄していたらしく寺院が多い。慶長2年宗遊開山の浄土真宗本願寺派尾上山明元寺,慶長6年嬉野家通開基の真言宗姑射山大定寺(現在は隣郷吉田に移転),宝永年中酒屋の生田某が椎の皮買入れで武雄領主と起こした紛争に住職が介入した結果,武雄領内の檀家250戸を失って衰えたという浄土真宗本願寺派三忍山賢楽寺(賢楽寺文書),禅宗太寧山瑞光寺末寺福地院(現在廃寺)・寿昌院(現在の塩田光住寺),御領中10郡中の崇敬をあつめた嬉野水神宮(蓮池藩請役所日記)があった。また当村は,やや高台に位置しているため,塩田川からの取水が難しく,支流宿川と鷹ノ巣・山三郎・岩峰・餅ノ木の溜池から用水したが,旱魃の年は不足し,上流の岩屋川内村内からの取水を希望して,たびたび紛争を起こした。産物は米・麦が主で,のちには茶の栽培も始められていた。文化年間には西田某が築窯し,皿や徳利を焼いた(古伊万里年表)。幕末には,嬉野水神宮渋江氏の私塾があった。明治4年佐賀県と蓮池県,同年伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では枝村に内野村・内野山村・本村・湯ノ田村が見える。「郷村区別帳」では枝村は見えず,反別311町余,「明治11年戸口帳」によれば,当村は下宿村(125戸・567人),内野山村(91戸・398人),内野村(29戸・147人),本村(59戸・216人),湯宿(109戸・453人),湯野田村(128戸・577人)に分かれており,合計戸数541・人口2,358。明治5年瑞光寺に時習小学校を開校。同9年村内の有志18人の共同出資により温泉浴場改築。同11年大草野村今寺を編入。この頃国道(現34号)が長崎街道と塩田川の中間に建設され,今寺・下宿・本村を横断し,湯宿では長崎街道と重なり湯野田に抜けた。同15年湯宿中央にあった氏神豊玉姫神社を宿はずれに移転,その跡に警察分署設置。同17年郵便取扱所開設。その頃の旅籠・木賃宿34軒。旅籠1泊最上等25〜40銭,上20・中18・下16,木賃上8・中7・下6。明治22年西嬉野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7445500
最終更新日:2009-03-01




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