ケータイ辞書JLogosロゴ 下野村(近世)


佐賀県>嬉野町

 江戸期〜明治22年の村名。藤津郡のうち。佐賀藩領と蓮池【はすのいけ】藩領。嬉野郷に属す。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」とも小村に志戸上村が見える。村高は「正保国絵図」「元禄国絵図」「天明村々目録」とも280石余,「天保郷帳」は317石余,「旧高旧領」は730石余。蓮池藩領の地米高は「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」とも289石余。天明元年〜4年の本支藩の藩境紛争の結果,石の境界標識(番号石)299個を設置。その際の家数は本藩領16・蓮池藩領73(泰国院様御年譜地取)。「新御山方田畑帳」によれば,元禄2年の1反あたりの租米は上田1石2斗3升・中田1石1斗3升・下田1石3升で,下田は8段階に分けられる。南部の山は藩の御山となっている。浄土真宗本願寺派証誠寺は北面の武士橋本織之進が寛永元年に得度して信清と称し開山した(証誠寺由緒)。神社には下野丹生神社がある。村絵図に見えるように当村は,塩田川や支流井手川内川より取水しているため水利の便は良いが,旱魃の年には対岸の下宿村や今寺村と用水の紛争を起こし,寛政12年には庄屋喜平次・誓紙喜左衛門が処罰された。なお羽白から吉田郷に抜ける峠道は,唐泉山にある火伏の神として有名な八天社への参拝客でにぎわったという。弘化4年の村絵図によれば,村の北部を東西に流れ塩田川と合流する吉田川以南の平地には,塩田川と並行して道が数本走り,山間や川の上流より取り入れた水路が道に沿って数本流れている。吉田川近くの山寄りに飯盛,中央付近の山すそに道雪,山を隔てて南に羽白越の集落が見える。飯盛の東の山中に城跡と記す一角があり,また村内南西の山中にも城跡が見える。道雪の北隅には証誠寺,羽白越の北隅に観音がある。山地には北・中部に田・畑・畔地が混在し,一本松〜四本松の区分がなされている。明治4年蓮池県と伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では枝村に下吉田村・井手川内村の名が見える。「郷村区別帳」では枝村は見えず,反別260町余。「明治11年戸口帳」では当村は下野本村分(112戸・528人),井手川内村(109戸・484人),下吉田村(162戸・776人)に分かれており,合計戸数383・人口1,788。明治11年下野小学校開校。同18年頃の農家数350,田103町余,畑79町余,米1,200石,麦800石,茶3,600斤,甘藷10万斤。同22年東嬉野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7445520
最終更新日:2009-03-01




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