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城村(近世)


 江戸期~明治22年の村名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7445559]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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城村(近世)

王府時代~明治36年の村名国頭【くにがみ】方,はじめ国頭間切,康煕12年(1673)田港間切,17世紀末頃からは大宜味【おおぎみ】間切のうち沖縄本島北部,外堀田【ほかほりた】川(大川川)中流域の丘陵上に立地する「高究帳」には国頭間切城村と見え,喜如嘉村と併記され,高頭118石余うち田110石余・畑7石余「由来記」では大宜味間切城村と見える乾隆18年(1753)からは城村でも国頭在番が船の荷改めを行うようになった(地方経済史料9)道光11年(1831)の人数改帳に2戸・15人(男8・女7)の人名が見え,ノロクモイも含めてすべて禅宗で,世帯には夫婦と子供,さらに甥・姪などが同居していたまた近傍の根謝銘【ねじやめ】村から2人の嫁が来ており,饒波【ぬうは】村へ女1人を出している(大宜味村史)御嶽に小城嶽があり,大宜味間切他村の御嶽と同じく毎年四度・四品・百人御物参の祈願に,公庫から御花米が出されている(由来記)小城嶽は,根謝銘城の中にあるまた城ノロ火の神の稲穂祭三日崇べでは,城・喜如嘉・大宜味・饒波の各村百姓から供物が出され,さらに同祭では按司・惣地頭・喜如嘉地頭・南風掟・西掟・喜如嘉掟などが供物を出した(同前)明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属明治13年の戸数21・人口118うち男52・女66(県史20)同36年根謝銘村・一名代【てんなす】村と合併し,謝名城【じやなぐすく】村となる現在も集落はグシクバールと呼ばれる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

城村(近世)
江戸期~明治8年の村名豊後国海部【あまべ】郡佐伯【さいき】荘のうち番匠【ばんじよう】川支流堅田【かたた】川分流大越【おおこえ】川下流域左岸に位置する堅田村に所属慶長6年から佐伯藩領同年12月10日付毛利高政知行宛行状案によると当村内100石を森織部(筆頭家老戸倉行重)に宛行っている村位は下(位付)村内に河原【こうばる】・田淵【たぶち】・元越【もとごえ】・江下【えげ】・歓喜【かんき】・高城【たかじよう】・経塚【きようづか】・清水川【しみずがわ】・谷【たに】・野添【のぞい】・船付【ふなつき】・高下【こうげ】・小谷【こだに】・寺田【てらだ】・泥谷口【ひじやくち】の地名がある(仮名付帳)村高は「正保郷帳」1,299石余,「見稲簿」では高なし村,「天保郷帳」では堅田村3,049石余のうち,「旧高旧領」1,305石余文化7年城村助右衛門組の家数92・人数477,同幸兵衛組の家数不詳,人数331(温故知新録)同年3月11日伊能忠敬が当村を測量(九州測量日記)「御領分中寺社記」に,佐伯城下養賢寺末臨済宗瑞雲山天徳寺,佐伯城下善教寺末真宗東本願寺派光久寺,城八幡社・寺田権現社が見える明治4年大分県に所属同8年岸河内【きしがわち】村・大越村と合併して長谷【はせ】村となる現在の佐伯市大字長谷のうち...

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城村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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城村(近世)
王府時代~明治36年の村名国頭【くにがみ】方名護間切のうち名護三箇の1つで,名護城のある丘陵の西斜面下方が古島といわれる村名は「絵図郷村帳」に見えるが,その後名護村の一部となる王府時代末には,名護村が東江【あがりえ】・大兼久・城の3か村に分かれていたらしい同治4年(1865)杣山の植林は,ひらたちや山唐竹敷500坪に唐竹苗10本,きちる川桐木敷500坪に桐木苗40本,楷木山訴開地1万5,000坪にいちよ苗5,000坪で,ほかに大工又山「道并間ふけ仕置」のため松御禁止敷500坪と定められたまた,同年きちゝ川山の杉木6本,安和かし川かんたん見立あこし川山杉敷の松木1本,あたし川山同杉木敷の松木1本が,大風で倒された(地方経済史料9)明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属東江村・大兼久村より遅れて,名護城のある丘陵から海岸の砂地に移動した城村は,宅地が狭く,明治2年以来大兼久村に対して土地の交換を申し入れてきた同2・13・26年の3度の交渉と2度の訴訟で,城村に有利な結果を得ることができた(名護六百年史)明治13年の戸数80・人口497うち男265・女232(県史20)同36年名護村の一部となる...

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城村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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城村(近世)
江戸期~明治8年の村名相模国三浦郡のうち延宝4年三崎町から分村したという(皇国地誌/残稿)ただし「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」には村名は見えない寛永10年・元禄10年・幕末ともに旗本間宮氏知行間宮氏はもと武田信玄に仕えたが,武田氏没落後徳川氏に従い,水軍を指揮して三崎の海を警固,当地に要害を構えたという村名はこれに由来するともいうが(新編相模),宝暦6年の「三崎志」によれば,城名は一名城ノ谷とも称し,貞観年間に当地辺に1人の尉が住居したことに由来するともいう「三浦古尋録」による村高3石余,家数30軒余「新編相模」によれば,江戸から18里,東西1町半余・南北1町余,間宮氏が江戸移住後同氏付の水主30人は漁業を行い金子を同氏へ上納,家数72軒,夏には鰹を多く獲るとある延宝2年江戸本材木町新肴場の附浦となり,当村の漁獲物は全て新肴場へ送ることとされた明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属同8年三崎町の一部となるなお当地域はその後同11年に改称して宮城町となる...

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城村(近世)
江戸期~明治初年の村名阿蘇郡のうち小国盆地北西部に位置し,筑後川の支流蓬莱川と中原川に挟まれる熊本藩領村高は,「寛永郷帳」197石余,「正保郷帳」も同高でうち田106石余・畠90石余,「天保郷帳」209石余明和6年の小村は江布村・戸角村・古地村・柿木村(小国郷史)「肥後国誌補遺」では北里手永に属し,高242石余,神社は鉾大明神社,寺院は寛永17年開基の浄土真宗西派光覚寺,地内の城村の滝は高さ15間とある同書には古地村が別に記され,高118石余,小村に室園・井ノ本・柿ノ木が見える元禄12年の北里手永高反別帳(肥後国郷村明細帳1)によれば,高360石余うち古地村118石,竈数40・人数273うち男156・女117,馬23・牛57当村では杉や檜の植林が行われていたほか,楮を産している(小国郷史)明治初年黒渕村の一部となるなお明治3年の北里手永手鑑(肥後国郷村明細帳2)によると,黒渕村と別に当村が記され,高362石余,竈数34・人数171...

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城村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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