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- 滝川村(近世)とは
「滝川村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 滝川村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 滝川村(近世) 江戸期~明治11年の村名三河国設楽【したら】郡のうち豊川上流右岸に位置慶長5年から幕府領村高は,慶長9年検地,「寛永高附」ともに26石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに32石余家数・人数は,延享3年18・85,天明8年20・64,明治5年18・53砥山の御林で山仕事をして生計を補った天保5年当村で船2艘の建造計画がたてられ,有海【あるみ】・乗本両村の舟持惣代の了承を得たが,出沢【すざわ】村から鮎滝破壊の恐れを理由に反対され,結局横山村へ出張することで通船が認められた川舟は嘉永元年まで続いた(新城市誌)また,当村貝津から横山村へは渡船が行われた延享3年の村指出帳によれば,渡船1か所,船2(長7間・幅7尺),舟賃1人銭3文・中馬口付銭6文,日帰りは片道銭のみ,武家は無賃安政6年の渡船規定書では村内を3組に分け,毎月2組から2人ずつ船頭を勤め,村の大きな収入となったなお,天明8年の村指出帳によれば,安永2年から渡船運上として永5貫文が課された白鳥神社・秋葉神社がある明治11年南設楽郡に所属同年横川村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 滝川村(近世) 江戸期~明治11年の村名三河国設楽【したら】郡のうち豊川上流右岸に位置慶長5年から幕府領村高は,慶長9年検地,「寛永高附」ともに26石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに32石余家数・人数は,延享3年18・85,天明8年20・64,明治5年18・53砥山の御林で山仕事をして生計を補った天保5年当村で船2艘の建造計画がたてられ,有海【あるみ】・乗本両村の舟持惣代の了承を得たが,出沢【すざわ】村から鮎滝破壊の恐れを理由に反対され,結局横山村へ出張することで通船が認められた川舟は嘉永元年まで続いた(新城市誌)また,当村貝津から横山村へは渡船が行われた延享3年の村指出帳によれば,渡船1か所,船2(長7間・幅7尺),舟賃1人銭3文・中馬口付銭6文,日帰りは片道銭のみ,武家は無賃安政6年の渡船規定書では村内を3組に分け,毎月2組から2人ずつ船頭を勤め,村の大きな収入となったなお,天明8年の村指出帳によれば,安永2年から渡船運上として永5貫文が課された白鳥神社・秋葉神社がある明治11年南設楽郡に所属同年横川村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 滝川村(近世) 江戸期~明治10年の村名安房国山下【やまもと】郡,のち安房郡のうち平久里川支流滝川流域に位置するはじめ里見氏領,元和元年幕府領,のち「正保高帳」では北条藩領,「房陽郡郷考」では忍藩領,「旧高旧領」では前橋藩領村高は,慶長15年「里見家分限帳」75石余,「元禄郷帳」70石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに71石余「正保高帳」では村高70石余のうち,田26石余・畑44石余正徳元年北条藩領内で起こった百姓一揆万石騒動27か村の1村天保年間頃の家数13(石井家文書/県史料安房)鎮守は木幡神社,ほかに市杵島神社,寺院は浄土宗三善寺明治6年千葉県に所属明治10年山本村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」