ケータイ辞書JLogosロゴ 田代村(近世)


佐賀県>伊万里市

 江戸期〜明治22年の村名。松浦郡のうち。はじめ唐津【からつ】藩領,慶安元年幕府領,同2年唐津藩領,文化14年幕府領豊後国日田代官所支配地,文政3年唐津藩預り地を経て,天保13年以後は日田代官所支配地。大川野組に属す。「慶長国絵図」には村名が見えない。村高は,元和検地高197石余,「寛永割符村付帳」では同高で,うち新田分3石余(伊万里市史),「正保国絵図」では149石余,「天保郷帳」「旧高旧領」では220石余。宝暦年間頃の村高は200石余,反別は13町余(木下家文書)。文化年間頃の田畑高219石余,古高149石余,畝数16町余,年貢率は6割4分5厘から1割まで,家数51,人数220(男114・女106),馬23,威鉄砲2(松浦拾風土記)。「松浦要略記」「松浦古事記」によれば,松浦党波多氏の一族田代日向守が当村の亀井城(館)に居住し,300石を知行したという。「松浦記集成」には田代大炊之介が当村筒江に居住したとある。「明治元年松浦郡大概尽」によれば,村高220石余,反別は田方10町余,畑方5町余,家数57,人数276(男125・女151),溜池4,井磧3。また当村は山中の小村のためにぎわいはないとある。甚しい傾斜地に立地するため「田代の千枚田」と通称。年貢米は駒鳴村の石坂土場から川下げされた。当村の山野は山口・大野川村との入会で,たびたび争論となった。慶応2年長崎奉行所支配地,同4年薩摩藩支配地を経て,明治3年厳原【いずはら】藩の管下となる(伊万里市史・大川村誌稿)。同4年厳原県・伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では1村として見え,「郷村区別帳」では立川村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば1村として見え,戸数59・人口298。明治11年西松浦郡に属し,同22年大川村の大字東田代となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7445791
最終更新日:2009-03-01




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