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- 西魚町(近世~近代)とは
「西魚町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 西魚町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は佐賀城下の1町寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ町名は魚屋が集住していたことにちなむ佐賀城の西に位置する北は伊勢屋...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7446212]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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西魚町(近世~近代) 江戸期~昭和47年の町名江戸期は明石城下の1町明治初年~明治22年は明石を冠称元和4年小笠原忠政の明石築城の際に成立した町享保6年改によれば,役門35軒6歩5厘,家数86(本家31・借家55),建家表地口220間1尺5寸,人数372,大屋佐太郎の北の横丁南北94間を檜物屋町と呼んでいる(金波斜陽)樽屋門の南,中町(もと信濃町)の北側にあたる東魚町が生魚を取り扱っていたのに対し,干魚を中心にこんぶ・塩物など海産物を扱っていた(明石市史)町内には医師として針立本田次郎兵衛・本田玄作・神部寿仙がいた(播州明石記録)文化13年西魚町の塩魚商のうち8人が生魚商の仲間に加入して生魚を売買していたが,大年寄より町の定を乱すとして禁止され,代表で西魚町肝煎の島屋喜兵衛が後日のため一札を入れているなおこの時,西魚町の塩魚仲間は20名であったこれ以降東魚町・西魚町の商が厳しく区別されるようになった(明石名勝古事談)明治22年明石町,大正8年からは明石市に所属昭和20年7月7日空襲により79戸が全焼(明石市史)同47年本町1~2丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西魚町(近世~近代) 江戸期~昭和46年の町名江戸期は小倉城下の1町紫川と板櫃川に挟まれ,小倉城の北に位置する西曲輪のうち江戸期は単に魚町と称することが多かった毛利勝信在城時代は片側町であったが,細川氏治下で拡張され,八百屋町とともに成立したという(小倉市誌)東曲輪の整備で造られた魚町(東魚町)と区別するため,西魚町と通称し,すでに寛永3年の日帳には「西魚ヤ町」と記されている西は大門をぬけて大門町に至り,東は八百屋町,南は室町に接し,北は海に面す当町には魚問屋や魚売商が多く,幕末期の城下町屋敷絵図には,エビ屋のほかに長浜屋・小祝屋・今津屋・セト崎屋など魚貝類や漁村にちなむ屋号が見られる享保の飢饉では28人の餓死者を記録した(開善寺過去帳)幕末期の戸数は32戸余(城下町屋敷絵図)町内には神明宮・蛭子社のほか,天台系修験道九州別本山の地位を誇る英彦山の出津屋敷や伊勢暦を配布する伊勢屋敷があった明治17年の戸数1戸・人口5同22年小倉町,同33年小倉市,昭和38年からは北九州市小倉区に所属同46年室町1~3丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」