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野口村(近世) 江戸期~明治8年の村名安曇【あずみ】郡のうち高瀬・籠(加賀)・鹿島の三河川の扇央部に位置する天正10年9月4日の上杉景勝宛行状によれば,耳塚元直は望地の小宮・岩岡口・「野口」を宛行われている(県立長野図書館所蔵文書/信史15)江戸期は松本藩領大町組に属する村高は,「慶長改帳」176石余,「正保書上」「元禄郷帳」ともに174石余,「天保郷帳」289石余,「旧高旧領」293石余貞享4年大町組宗門改人数寄帳(県史近世史料5‐1)によれば,人数320うち男176・女144元文4年大町組家数村別帳(同前)では,家数92うち高持軒役家67・高持無軒役15・無高水呑10安政2年安曇筑摩両郡村々明細書上帳(同前)によれば,家数103・人数505当村の西部,高瀬川には,平岩と呼ぶ巨石があり,安政年間には,この巨石を利用してこの地方唯一の刎橋を架け,松川組上一本木村へ通じる糸魚川街道の捷路が開発された(大町市史)旧三川堂(大姥堂)は,野口村の下村にあった曹洞宗東陽院(仁科三十三番札所第9番)の毘沙門天を客仏としており,現在は西正院大姥堂と称している仁科神明宮の式年造営に奉献した用材は,高瀬川の上流,宮沢山から伐り出したと伝える当村の大宮神明社は,伊勢内宮を勧請した神社で,仁科神明宮との関係をもつ中世の落日を彩る佐々成政の雪中ザラ峠越えもこのコースといわれるそのとき山中の安全を祈って成政の手の者が背負ってきたという大姥尊像が大姥堂に安置され,今に残る明治4年松本県を経て筑摩県に所属同8年平村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
野口村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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野口村(近世) 江戸期~明治7年の村名大野郡のうちはじめ福井藩領,寛永元年からは大野藩領大野城の南(現市役所付近)に位置したが,安永4年の大火によって当村が出火元となって天守閣まで焼けたことや,さらに文政5年の火事でも当村が火元となったことにより,同年藩主から本願清水の西側へ屋敷替を命じられ移転したという「名蹟考」には「昔は印内村と云」とある「元禄郷帳」「名蹟考」には大野町枝郷とあり,「天保郷帳」では大野町に「古者,大野町・篠倉村・野口村・清滝村・金塚村・西方寺村六ケ村」と肩書きされ,「旧高旧領」にも当村の名は見えない明治5年の田畑反別調帳(宮沢家文書)では分郷野口村とあるなお,明治6年の管轄区分表(大野郡誌)では野口町とあるはじめ福井藩領,寛永元年からは大野藩領村高は,「元禄郷帳」「名蹟考」ともに193石余家数・人数は,宝暦6年の村々本高家数人数覚帳(武田家文書)は17軒(高持12・水役5)・人数99(男51・女48),天明3年は本家12軒・地名子2軒,男36・女41,安政4年男36・女35屋敷替の前後で人数などの変化がないのを見ると,全村移住がなされたと思われる明治4年大野県,以降福井県,足羽【あすわ】県を経て,同6年敦賀県に所属明治4年の人数は男36・女39同6年の戸数16同7年春日町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
野口村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
野口村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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野口村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
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