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- 東魚町(近世~近代)とは
「東魚町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 東魚町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名魚町ともいう江戸期は佐賀城下の1町寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ町名の由来は魚屋が集住していたことにちなむ十間堀...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7446425]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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東魚町(近世~近代) 江戸期~昭和47年の町名江戸期は明石城下の1町明治初年~明治22年は明石を冠称元和4年小笠原忠政の明石築城の際成立した町享保6年改によれば,役門27軒,家数89(本家52・借家37),建家表地口168間半1尺5寸,人数446,町内の大和屋弥兵衛前の丁を滑町と呼んでいる(金波斜陽)追手口門と細工門に面した通りで,西の魚町が干魚を取り扱っていたのに対し生魚を取り扱っていた現在でも魚の棚と呼ばれ,近在近郷の市場としてにぎわっている(明石市史)町内には医師として杉岡玄長・宇野養廻がいた(播州明石記録)明治22年明石町,大正8年からは明石市に所属昭和20年7月7日の空襲により71戸が全焼(明石市史)同47年本町1~2丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」