ケータイ辞書JLogosロゴ 桃川村(近世)


佐賀県>伊万里市

 江戸期〜明治22年の村名。松浦郡のうち。佐賀本藩領。伊万里【いまり】郷に属す。「慶長国絵図」では杵島郡に属し梅野のうちに見える。村高は,「正保国絵図」「天明村々目録」ともに655石余,「天保郷帳」では873石余,「旧高旧領」では640石余。なお地米高は文政11年521石余,安政6年529石余。安永8年の人数896(うち極難者223)。天明7年には焼物屋18人がおり,瓶山【かめやま】で瓶・摺鉢・荒焼物を焼いた。下分の館中山【たつちゆうやま】には,慶長・元和頃西目代官を命ぜられて当地に在住した中野神右衛門供養碑が建てられている。なお瓶山開窯の朝鮮人陶工は彼が連れてきたと伝える。また馬ノ頭の灌漑施設も,当初中野神右衛門の開発計画に基づき成富兵庫茂安が実施設計して慶長16年に完成した。「疏導要書」には,「一体此桃川村山際の所にて地面高く川水低くして作水の勝手悪きにより,茂安の計ひにて此川の水上,本部村の南に井手を築き村を分て水道を開き,桃の川にある井手の底に馬ノ頭と云桶樋を二口部,此川東西の地面に水を引き,是より耕作の道ひらけ今に至て水旱の憂なく至極便利」とある。この水利工事によって十町歩の開発・灌漑が可能となるが,その維持・改修には莫大な費用・労力を要した。鎮守は諏訪神社で,文化4年現在地へ遷った。毎年10月22日にはシメ縄切り(へその緒切り)の行事が行われる。明治4年佐賀県・伊万里県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では枝村に萩尾・高瀬・上原・宿浦・下平があり,「郷村区別帳」では枝村が見えず,反別207町余。「明治11年戸口帳」によれば戸数314・人口1,505。明治11年西松浦郡に属し,同22年松浦村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7446909
最終更新日:2009-03-01




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