ケータイ辞書JLogosロゴ 青方(中世)


長崎県>上五島町

 鎌倉期から見える地名。肥前国松浦郡宇野御厨のうち。青方浦・青方村とも書く。弘安3年11月25日の百姓等連署起請文案によると,浦部島地頭得文に関する守護尋問に,青方浦の百姓等が,地頭峰持と青方家高の知行時代のことを答えている。青方氏は,この家高を始祖とする。家高の父尋覚は藤原姓で,小値賀【おぢか】島本領主清原是包の甥にあたり,建久7年7月12日に小値賀島地頭職に補任された。尋覚は嫡男通高(通澄)に小値賀島地頭職を,次男家高に小値賀島内浦部を譲り,家高は浦部島青方を拠点として以後青方氏を称するようになる。しかし,承久元年11月2日に通澄が小値賀島地頭職を峰持に譲ったため,峰持と家高の間で相論となったが,暦仁元年12月25日和与となり,青方氏は家高の嫡子能高の代まで浦部下沙汰職(地頭代官)に任じられることとなり,寛元4年11月22日,小値賀島地頭職は峰持に安堵された。かくて青方氏は,実質的な所領の領有権を失ったが,家高は地頭峰氏に無断で所々を分割し,嫡男能高に浦部島を,次男弘高に浦部島内佐保・白魚を譲り与えた。以後,青方氏と峰氏は浦部島の所領をめぐって相論を繰り返すが,能高は弘安10年正月15日の譲状案によれば,「うらへのしまあおかたのちとうしき」を子息高家に譲っている。その四至は「きたハとらくのセと,ひんかしハひたを,にしハうみかうらいのと也,みなミハさをさき」と見える。しかし,正応2年3月4日の青方覚尋譲状案によれば,覚尋(能高)は,高家に器量なしとして地頭職を悔い返し,孫にあたる波佐見親平に「あをかたうらへのしま」地頭職を譲った。その四至は「きたハはまのうらのそゑくひ みなミハうミゆらかつかさ ひんかしハうミかつ人のセととわけ にしハたかうらのセと このほかかいまたのしま月かハり」とあり,高家領の山野は制すべからずと見える。高家と親平はその後貝俣島等をめぐって相論を繰り広げ,親平は所領を峰貞に沽却している。貞は持の子孫で小値賀浦部地頭であり,嘉元3年6月日の申状案では,貞所領青方住人宗次郎の住家・塩屋に放火し財物を捜取ったとして,高家等を訴えている。このように,青方氏と峰氏の争いは続いていたが,青方氏内部においても争いがあった。正和元年11月日の青方覚念申状案によると,「青方西浦部」を押領しようとしたことにより,覚念(高家)が子息高継を訴えている。鎮西探題は,同年12月7日の御教書案で高継に上府を命じ,翌正和2年8月14日の御教書案では宇久披・志佐祝に命じて高継に請文を提出させようとしているが,高継は応じなかったらしく,同年11月13日の鎮西探題御教書写によれば,またこの両人に高継を参対させることを命じており,志佐祝は正和3年2月15日の施行状案で高継に明らめ申すことを催促している。同年6月14日には,肥前国守護北条政顕は,守護代に対し実否を尋問することを命じている。この訴訟の結果は不明であるが,青方氏同族間の争いはなおも続いた。文保元年9月日の青方高継申状案によれば,青方内三段田に狼藉をなしたとして,高継が舎弟高光を訴えており,同日の注進状案で高光の差遣わした狼藉人交名を注進している。同2年9月17日の青方高継譲状案によれば,高継は青方内の地頭職を養子亀法師丸に譲っているが,同年11月日青方高継代深申状案によれば,高継と高光は青方村地頭職をめぐって相論している。同3年3月15日の志佐祝請文案は高光の請文が進上されたことを知らせるが,以後高光側から陳述がなかったらしく,元応元年閏7月10日・同20日の鎮西探題引付奉行人大保道任・田口定頼連署奉書写は,不日終沙汰すべきことを高光に催促している。高継側は,同年閏7月日・同9月日の青方高継代深申状案で,高光は書下に違背しているとして,青方村に関する早急の成敗を要求し,同10月日の青方高継代深申状案で,覚心(能高)譲状の筆者である長弁(本名法明)の自筆状と高継が提出している譲状とを校合し,裁許に預らんことを求め,長弁自筆状を所持する宇久披以下の交名を注進している。鎮西探題は,同年10月29日の御教書案で,宇久披に対し長弁の自筆状の提出を命じた。それに対し高光は,元応2年8月日の申状案で,高継が同一人であるとする長弁と,法明は別人であり,また,宇久披と高継は縁者であると主張している。しかしながら同年10月,両者は和与を結んだ。10月21日の青方高光和与状案によると,西浦部青方の田畠屋敷山野などのうち,那摩本屋敷・前田1反・山口新田1反・曽禰を高光の知行とし,それ以外を高継の知行とすること,波佐見親平の押領分は,3分の1を高光,3分の2を高継が知行することが定められている。同年11月9日の鎮西探題裁許状案は,高継と高光の青方村をめぐる相論は和与状にまかせて沙汰すべきことを述べている。高継は,その後,同年12月10日の譲状写によれば,嫡子高直に青方村地頭職を譲り,元亨2年5月23日・同年6月日の譲状案によると,養子青方亀法師丸に青方内屋敷名田を譲っている。同年7月10日の青方高継・高直連署沽却状案では,青方内鮎河浦地頭職を銭50貫文で堺深に売渡した。ところが,同3年7月29日の鎮西探題御教書写によれば,青方内田地をめぐり高継と高光がまたも相論している。鎮西探題は,高継の訴えを受けて,度々召文を発していることが同年9月1日の御教書案にも見えるが,同年9月14日・9月15日の御教書案によれば,高光は応じていない。高継の主張は,同4年9月日の申状案及び青方高継代高直申状案によると,高光は庶子でありながら惣領である高継をさしおいて下文を給わらんとし,青方村内田畠屋敷塩屋などを押領したというものである。同年11月日の青方高継代高直申状案では,高光が散状に及ばない上は,早く裁決されんことを求めている。争いは以後も続いたらしく,建武元年7月日の青方高直申状案において,高直は,伯父高光の青方浦に対する濫妨を訴えている。青方内の所領をめぐる相論は,このほかにも存在した。元亨4年6月13日の鎮西探題御教書案によると,先に沽却した青方内鮎河浦地頭職について,高継と堺深対・峰貞が相論している。また嘉暦2年5月日の青方覚性代高直申状案によれば,青方内浦々について,高継と白魚行覚の跡の輩が相論している。後者については,嘉暦2年閏9月29日の白魚盛高和与状案において和与が成立し,四至堺を定めている。元徳2年閏6月2日,高継は青方村那摩内「やかためのさき」を次男高能に譲り,元徳4年2月28日には青方覚性・高直連署譲状案で,青方内那摩浜内の屋敷も高能に譲った。その後高直は,青方村地頭職の安堵を求めて,元弘3年11月日および12月日に申状を提出したが,建武新政府から安堵状は下されなかったらしく,建武元年7月日および8月6日にも申状を提出している。同時に同年8月日,目安状を提出して青方村当知行の由緒を言上し,高直は知行の正当性を主張した。それに対して同じく建武元年8月日の松浦定代河内清直陳状案によれば,青方浦は松浦定(峰貞)の重代相伝の所領であるものを高直が自領と称しているとして,定が高直を訴えている。この相論は,同年10月6日の雑訴決断所安堵下文案によると,高直に青方村地頭職が安堵され決着を見ている。高直は,康永2年4月11日,青方内所領を嫡子重等に譲り,観応元年7月26日,西浦目青方村以下浦々地頭職・所々恩賞地を重に譲った。重は貞和6年11月日の青方重等申状案によれば,所領所職の安堵を求め,同年12月13日足利直冬により安堵されている。正平25年8月9日,重は嫡子固に青方村以下所々地頭職を譲ったが,永和5年4月7日,重は新たに譲状を作成し,固一期の後は,孫にあたる豊益に青方村地頭職を譲ることを定めた。豊益は,後の青方近のことかと考えられる。永徳元年10月21日,重は今川了俊により,青方本領当知行地を安堵され,同3年10月26日には,重が次男孫益熊丸に,青方内の所領などを譲っているが,同4年2月23日の下松浦住人等一揆契諾状案では「〈あをかた〉豊前守固」とあり,固が署名している。重は,嘉慶3年2月29日に青方内の所領などを了円に譲り,康応2年正月23日に青方内一所屋敷等を益熊丸に譲った。この頃には,青方内の所々に対して複雑な領有関係が成立していたらしい。永和3年4月15日の鮎河道円・鮎河昵連署沽却状案によると,道円は青方浦の網代の一部を23貫文で青方氏に沽却し,同年6月1日の青方進沽却状案によれば,進は同じく青方浦の鰤網代の一部を2貫300文で神崎氏に沽却している。永徳3年7月13日の与等連署押書状案によると,有河・青方の住人等が,宿浦の阿弥跡につき寄合裁いている。明徳4年6月1日の源結田地相博状案によると,源結が青方の田地を相博している。同5年6月30日には,青方内栗林などが某から松田氏に譲られた。応永14年11月23日の穏阿譲状案によると,青方内の穏阿知行分の一部が,白魚氏に譲られている。その中で,青方の領主として青方氏は存続した。同20年5月10日の宇久・有河・青方住人等一揆契諾状案によれば,宇久・有河・青方の住人が一味同心して宇久松熊丸を取立てることを契諾しており,「〈あおかた〉近」の署名が見える。同23年2月17日,青方近と子息の進は青方地頭職を,近の孫鬼法師丸に譲った。延徳2年6月11日,「青方氏家譜」によると鬼法師丸の子息である青方頼が,青方領内を惣領に譲っている(以上,青方文書/史料纂集)。現在の上五島町青方に,青方氏の居館が存在し,その裏山にその居城であった「殿山城」という山城跡がある(城郭大系)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447184
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ