ケータイ辞書JLogosロゴ 阿連村(近世)


長崎県>厳原町

 江戸期〜明治41年の村名。対馬国下県郡のうち。対馬藩領。佐須郷に属す。寛永15年の「毎日記」に「あれ」と見える(県史藩政編)。宗家の「佐須郡御判物帳」に「右御判四通,佐須郡阿連村,百姓牧山助左衛門分,右御判三通,佐須郡阿連村大工手塚近右衛門分,右御判壱通,佐須郡阿連村大工上野杢右衛門分,あれの浜百姓等,あれの百性等,阿連村浦人分,阿連村分等」と見える。村高は,「寛文検地帳」66石余(県立対馬歴史民俗資料館蔵)。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」にも村名が見えるが,村高は記載されていない。「津島紀略」に「阿礼〈読如字〉,在佐須薦田之北一里十七町,去府四里十一町,至今里一里二町」とある。元禄12年郷村帳(県史藩政編)に,物成119石余,戸数67・人数284(10歳以上),給人2・公役人39・肝入2・猟師8,牛22・馬55,船11,寺2・社1とある。貞享年間の神社誌には日照大明神・八竜大明神・若宮大明神があり,天明年間の神社大帳にはほかに薬師社・飛神社を挙げている。日照大明神は,俗に「お日照り様」と呼ばれ,里奥川上の渓流に臨んだ祭場には,大木の根元に幣を奉る聖地があるだけで,社に類するものはなかったが,今日では小さい祠がある。神社誌には「神体無之,楠を祭」とある。「続日本後紀」の承和10年に対馬島の雷命神社に神位奉授のことが見え,「延喜式」神名帳には下県郡の雷命神社に「イカツチ」と訓がある。現在ではライメイと称しているが,神社誌に記されている「八竜大明神」(八竜殿)をさしている。祭神は対馬県直雷大臣とされ,対馬亀卜の始祖という。「津島亀卜伝記」に,対馬卜部の祖を雷大臣とする主張に合わせたもので,そのもとは「新撰姓氏録」にあり,「津島直,天児屋根命十四世孫,雷大臣命之後也」というものである。雷大臣とは神功皇后の審神者を勤めた中臣烏賊使王である。「津島亀卜伝記」では,神功皇后に従って新羅に渡った雷大臣が帰途対馬に留まって県直【あがたあたい】となり,亀卜の術を伝えたという。その子孫が卜部となり,数十家に分かれたが,当地の神主橘氏をその本流とし,亀卜の発祥地とされている。橘氏は早く亀卜を廃し,火災に遭ったということで家伝書もない。「お日照り(天の神)」が東の神山に祀られ,雷命神社が川下の淵の畔に祀られる状況は,対馬の卜部里に共通した形である。毎年9月末「お出船」の神事があって,雷命神は出雲に旅立ち,10月はお日照りが雷命の社に入り,村が守られる。霜月朔日雷命神が帰り,「お入りませ」の神事がある。8日は雷命の大祭で,翌9日にお日照りが本山に帰り,「本山送り」の行事が行われる。人々は,浜辺で玉石をひろい,雷命神社への参道の各祈祷所に置きながら神社に参内する。儀式のあと雷命神社から本山まで行列をする。大カナグラ幣を先頭に75本の御幣を各々背中にさして進み,時々,先頭の大カナグラ幣の奉持者が「イザヤ,トノバラヲ,モトヤマニ,オオクリモホス」と大声で音頭をとると行列の老若男女の里人は「オー」と返す。神山の入口に来ると川原を裸足で進み,神前に幣を納めて祭礼を行い,川原で直会をする。「お日照り様」は「祭神媛神」(大小神社帳)とされ,この時懐妊しているという。若宮神社の祭神は,雷大臣の子日本大臣,小大臣とされ,これは「続日本紀」天応元年7月,右京人栗原勝子の言上した伊賀都臣の子日本大臣,小大臣の話と同じである。阿連には七茂・七渕と称する聖地があるが,古い祭祀の跡と考えられている。明治4年厳原県,伊万里県,同5年佐賀県を経て,長崎県に所属。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西約41町・南北約25町,地勢は「東白岳ノ南角高聳ヘ,山脈二分シテ村ノ南北ヲ包ミ,恰モ鐘ノ如ク地勢西ニ開テ朝鮮海ニ臨ム,岳川・佐須河内川共ニ東南ニヨリ発源シ屈曲西犇合シテ海ニ注ク,其南北ヲ民家トス,耕地ハ諸渓口ニ散布ス,而シテ山谷幽深ニシテ木材・薪材甚多ク,運輸便ト雖モ浦頭風波ヲ避ケス」,地味は「其色黒シテ粘セス,其土ハ中ノ中,麦・粟ニ適シ甘藷ニ可ナリ,而シテ水理便ナラス水田乏シ」とあり,税地は田4町余・畑36町余・宅地1町余・山林5町余の合計44町余,改正反別は田6町余・畑48町余・宅地3町余・山林400町余などの合計458町余,地租は米3石余・麦149石余,改正租金は241円余,戸数は本籍56・社1の合計57,人口は男151・女126の合計283,牛37・馬118,船4(50石未満艀船)。また,神社は村社の雷大臣神社が鎮座,学校は小茂田小学校阿連分校が設置され,生徒数は男32・女3,民業別戸数は農業54・商業2,物産は米12石余・大麦330石余・小麦2石余・大豆2石余・蕎麦38石余・甘藷10万斤・実綿5斤・苧330斤・砂糖100斤・蜂蜜10斤・干鰛600斤や布海苔,ほかに厳原港への移出品として菜種15石・莨275斤・椎茸550斤・乾鮑300斤・150斤・石花菜30斤が記されている。同24年の幅員は東西2町余・南北1町余,戸数55・人口304(男148・女166),厩50,学校1,小船43(徴発物件一覧表)。明治41年佐須村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447267
最終更新日:2009-03-01




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