ケータイ辞書JLogosロゴ 伊王島村(近世)


長崎県>伊王島町

 江戸期〜明治22年の村名。肥前国彼杵【そのぎ】郡のうち。佐賀藩深堀領。深堀郷に属す。正保元年はじめて伊王島の名が見える(菩提寺過去帳)。「元禄郷帳」「天明村々目録」「天保郷帳」などの郷帳類には村名が見えないが,佐賀藩の史料である「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」には伊王島村と見える。幕府に対しては一村として届け出ていないが,佐賀藩領内では独立した村として扱われていた。なお,「郡村誌」によれば,もとは深堀村の属島で,元禄年間に分村したという。村高は不詳。「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」にも村名が見えず,地米高も不詳。村内は船津(伊王島)・大明寺の2集落に大別され,文久元年の地図によれば,戸数は伊王島185・大明寺96。文化・文政年間以降の人口は,船津およそ300,大明寺およそ170(伊王島村郷土史)。大明寺には江戸期のキリシタン弾圧によって,深堀・外海【そとめ】のキリシタンが当地に数多く避難し潜伏した。寛永20年伊王島遠見番所が置かれ,長崎入港の外国船を監視する。文化5年伊王島台場が建設される。明治3年伊王島灯台が点灯される。白鬚神社は武内宿禰を祀る。曹洞宗蓮台山円通寺は元文4年深堀村菩提寺の桃竜玄浪が来住して開山となる。鰹船遭難碑は,文化12年の暴風雨による鰹船の遭難者数十名を慰霊して建てたものである。明治4年佐賀県,伊万里県を経て,同5年長崎県に所属。同11年西彼杵郡に属す。明治5年深堀村に合併し,当地は深堀村伊王島名と呼ばれたが,同13年再び分離して伊王島村となる。潜伏していたキリシタンは明治期に入るとカトリックに復帰し,明治12年ゴシック様式の大明寺教会を建立し,多くの神父・修道士・シスターを送り出している。明治7年赤痢が流行し,大暴風による被害も受けた。同14年伊王島小学校始まる。同16年3等郵便局設置。同18年巡査駐在所が置かれる。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西6町余・南北20町余,地勢は「南北ニ亘リ長シテ中高ク,東西ニ短シテ低下ス,其勢ヒ馬背ノ如シ,四周海ニ瀕ス,海運便利,薪炭共ニ乏ク他ニ仰テ以テ給ス」,地味は「其色赤シテ粘土,其質下,黍麦ニ宜ク,豆・甘薯ニ適セス,水脈薄ク旱ニ苦ム」とあり,村内は伊王島名・大明寺名に分かれ,税地は田2反余・畑24町余・宅地2町余・山林10町余・原野5町余の合計42町余,改正反別は田3反余・畑36町余・宅地3町余・山林15町余・秣場8町余などの合計63町余,地租は金165円余,国税金は57円余,改正租金は80円余,戸数は本籍386・社1・寄留3・寺1の合計391,人口は男1,141・女1,177の合計2,318,牛2,船134(50石未満漁船130・50石未満荷船4)。また,村内には灯明台があり,郵便局も所在し,神社は白鬚神社が鎮座,寺は曹洞宗蓮台山円通寺があり,民業は農業160戸・工業15戸・商業42戸・漁業172戸,物産の産出高は米2石・麦75石・甘薯7万3,500斤・大豆8斗余・雑魚1億3万2,000斤・漁船10艘,輸出高は雑魚1億3万2,000斤で,長崎港へ輸送されると記される。明治22年伊王島村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447281
最終更新日:2009-03-01




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