ケータイ辞書JLogosロゴ 生月(中世)


長崎県>生月町

 鎌倉期から見える地名。松浦郡のうち。生月島とも見える。文保2年12月16日の鎮西下知状案に「生月島領主加藤五郎」と見える(実相院文書/佐賀県史料集成15)。同文書によれば,肥前国の一国平均役である河上社の造営用途を生月島の領主加藤五郎が弁済しなかったため,鎮西探題がその催促を行っている。南北朝期に入ると,加藤氏は松浦党の一員として史料上に登場する。永徳4年2月23日の松浦党一揆契諾状に「〈いきつきのかとう〉常陸介〈いきつきのかとう〉伊勢守」と見え(山代文書/同前),同日の「青方文書」中の下松浦住人等一揆契諾状案では「〈いきつき〉常陸守景世〈いきつき〉伊勢守〈景卉〉」と見える(史料纂集)。前者には「〈いきつきの一ふん〉大和守」,後者には「〈いちふ〉大和守授」の名も見え,永享8年12月29日の松浦党一揆契諾状には「〈一部〉理」「〈加藤〉景明」「〈加藤〉景貞」と見える(来島文書/九州史料叢書15)。以上のことから,南北朝期〜室町期に生月の領主として「景」の字を通字とする加藤氏2家と一字名を使用する一部氏の存在が確認される。また,嘉慶2年6月1日の下松浦住人等一揆契諾状案には「〈生月山田〉彦犬丸代兵庫允義本」が見え(青方文書/史料纂集),生月山田の領主の存在が知られる。これはのちに加藤(生月)氏・一部氏とともに生月を三分した山田氏である。山田氏は加藤氏のうち山田に居住した系統が山田氏を名乗ったといわれる。ところで,応永29年8月晦日の年紀をもつ永光寺の鐘銘には「大日本国肥前州松浦郡生月島竹鞭山永光禅寺……爰有世官伊勢大守沙弥玄慧并大願主玄本」とある(日本古鐘銘集成)。永光寺は現在の生月町里免上川にある寺院で,里免の加藤氏館と伝えられる里館に近いが,「伊勢大守沙弥玄慧」はその官途および年代からして先の永徳4年の松浦党一揆契諾状に見える加藤伊勢守景卉と同一人かその子息と考えられ,山田氏と思われる。下って,「海東諸国紀」に「源義丁亥年,道使,来賀観音現像,書称肥前州下松浦一岐津崎太守源義,有麾下兵」と見え,「一岐津崎太守」源義が文明3年の朝鮮での観音現像に対して賀使を送ったことが知られる。生月島の付近は古くから渡明のルートであり,「策彦和尚入明記」にも「息尽」を通って天文8年7月2日に博多に帰ったことが見える(日明勘合貿易史料)。なお,生月の城館としては,里免の加藤氏居館里館の他に一部氏の居館と伝えられる一部氏館(壱部免),山田氏の居館と伝える望州館(南免),山田氏館(山田免),山田氏に代わり,戦国期末生月を支配した籠手田氏の居城山田城(山田免)がある(城郭大系)。籠手田氏の動向はイエズス会の宣教師の報告などによって詳しく知られる。フランシスコ・ザビエルが1550年(天文19年)に平戸を訪問したのち,翌年までの受洗者の中に,「生月のジョアン」の名が見える(フロイス日本史3)。1556年(弘治2年)から翌々年にかけて,「同所(平戸)にはこの地の主要人物三人中の一人なるキリシタンあり,その名をドン・アントニオDon Antonio(籠手田安経)といひ,平戸の港より二,三レグワの地に三,四カ所の地および小島を領す」(1559年11月1日ガゴ書簡/通信上)と見えるように籠手田安経が有力なキリシタンとなっていた。上記の小島は生月島と度島である。彼はビレラ神父と語って,1558年(永禄元年)までに自領の農民,未信者の家臣,家族一同をキリシタンとした(同前)。フロイスは「籠手田ドン・アントニオは(松浦)肥州(隆信)に次いで平戸でもっとも高貴な殿」(フロイス日本史6)としているが,アントニオが重用されたのは,松浦隆信が家督を嗣ぐ時,父の籠手田安昌が他の家臣を抑えて隆信の擁立を実現させた功績があったからだ,とある(同前)。生月は島の名称であるが,1566年(永禄9年)の記録に「司祭は,生月から,もう一つ別の堺目【さかいめ】というところに行き,そこからさらに壱部に行った」(同前9)と見えるように,それ自体でも南東部の館ノ浜(舘浦)から山田あたりを指すとされている。生月には,1558年に宣教師が平戸から退去させられた後も会堂が残り,1561年(永禄4年)アルメイダ修道士はその様子を次のように伝えている。島の高地に十字架が1基あり,その周囲に城のような塀があってその中がキリシタン墓地となっている。島の人口2,500人のうち教徒は800人で,会堂は野中にあって600人を収容,この野には1本の川が流れて敷地を廻り,ほとんど城郭のようである(1561年10月1日アルメイダ書簡/通信上)。翌年にはクリスマスにトルレス神父が平戸へ赴き,その後生月にも1か月余滞在したので,平戸各地のキリシタンも告白のため生月の教会に来た。この時,会堂から4分の1里の所に十字架をたて,ポルトガル商人もこれに立ち合った(1563年4月17日フェルナンデス書簡・同年11月17日アルメイダ書簡/同前)。1564年(永禄7年)にはフェルナンデス修道士が諸島を巡回し,クリスマスは生月の教徒のために神父と修道士が派遣され,籠手田安経は自ら果物を携えて来た(1565年9月23日フェルナンデス書簡/通信下,フロイス日本史9)。この年には平戸に天門寺と呼ばれる教会が建立され,常駐の宣教師が以後生月島や度島にも随時巡回に行くようになった。1569年(永禄12年)頃の記録は「ドン・アントニオおよびその兄弟ドン・ジョアン(一部勘解由)の島」におけるキリシタンの安寧を伝えるが(1569年10月3日バズ書簡/同前),1582年(天正10年)に籠手田安経が,続いて一部勘解由が死去すると,平戸松浦家は反キリシタン姿勢を強めた。豊臣秀吉のバテレン追放令が出たのち,生月に都【みやこ】の神学校,豊後の学院・修練院が移ってきたが,いずれも最終的には長崎に移された(フロイス日本史8・11)。松浦家では1589年(天正17年)頃には「ドン・アントニオの嫡子ドン・ゼロニモ(安一)が二人の司祭と二人の修道士を彼らの島々に留めるのを許すにあたっては苦々しく,かつ重々しい態度を示した」(同前11)と見え,1593年(文禄2年),朝鮮出兵のころには,生月にも教会を解体して名護屋へ運ぼうと役人が入りこんだ(同前12)。1593年,平戸城下に30年常駐した宣教師が去り(同前),反キリシタンながらこれを黙認してきた松浦隆信が1599年(慶長4年)に死んで,子の鎮信が嗣ぐと,家臣や一族に棄教を命じて迫害策に転じた。籠手田安一はこの時一族や家臣など600人余のキリシタンと長崎に亡命し,その後もさらに亡命者が出て,この地方の宗団は弱体化した(ジョアン・ロドリゲス日本教会史上・パジェス日本切支丹宗門史上)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447293
最終更新日:2009-03-01




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