ケータイ辞書JLogosロゴ 井崎村(近世)


長崎県>小長井町

 江戸期〜明治22年の村名。高来郡のうち。佐賀藩諫早領。諫早郷に属す。村高は,「正保国絵図」「元禄国絵図」「天明村々目録」ともに120石余,「天保郷帳」158石余,「旧高旧領」322石余。なお,「旧高旧領」では遠竹村を含んでいる。給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」ともに諫早豊前(諫早領)87石余。当村は室町期に伊佐早西郷氏の富国策により他村から入植した人々によって開発されたといわれ,遠竹村との境にある柳新田(築切田)は近世初期に湾口の狭い浅海を干拓したものである。天保3年の諫早私領田畑石高帳によれば,田11町余・畑12町余・屋敷3反余で地米87石余,ほかに出来畑5町余・地米3石余があり,合計地米高90石余。天正17年以来の水利協定(享保11年の井手分覚書)によれば,当村は船津川から取水する4本の井手のうち最下流の四の井手が与えられ,水の配分は隣村の小川原浦村が3分の2,当村が3分の1となっていた。幕末には諫早領主の奨励で茶栽培が盛んになり,「井崎は茶所」と唄われもした。茶は諫早領産物方によって買い上げられて長崎に積み出され,諫早領の重要な収入源となった。明治4年佐賀県,伊万里県を経て,同5年長崎県に所属。同11年北高来郡に属す。明治初年遠竹村を合併。なお,「北高来郡誌」は明治11年遠竹村を合併とするが,すでに明治6年の管内願窺届指令留(県立長崎図書館蔵)に「井崎村遠竹名」と見え,同8年作成とみられる小学校取調書(同前)に「井崎村字本村,字遠竹」と見えることから,少なくとも明治11年をさかのぼる時期に合併したものと考えられる。明治6年井崎学校創立。同11年井崎・遠竹・小川原浦・田原の4小学校を統合し,当村に崎原小学校を設置した。明治22年小長井村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447318
最終更新日:2009-03-01




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