ケータイ辞書JLogosロゴ 伊佐早(中世)


長崎県>諫早市

 南北朝期から見える地名。肥前国高来【たかき】郡のうち。応安6年9月日の深堀時広軍忠状に「為高木凶徒対治,御発向之間,去三月一日,馳参伊佐早御陣,宇木城攻之時,致忠節畢」とあり(深堀文書/佐賀県史料集成4),高来郡の征西将軍宮方に味方する勢力を討つため,今川満範は応安6年3月1日伊佐早に着し,宇木城にたてこもる伊佐早右近五郎・西郷藤三郎を攻撃し,7月7日には神代・大隈,9月6日には,千々石【ちぢわ】方面へ転戦している(県史古代中世編)。さらに,翌年8月の深堀時勝軍忠状には「去七月廿三日,管領伊佐早御着之時,令御共……同(八月)十五日西郷御着之間,致宿直,令伊佐早御共了」などとあり,翌年の7月23日には管領(今川了俊)が自ら伊佐早に出陣し,宮方の勢力の一掃を図っている(同前)。このように,伊佐早には今川了俊の高来攻めの本陣が置かれていた。下って,戦国期には高来郡北の国人として活躍した西郷氏が当地に本拠を置いている。フロイスの1562年(永禄5年)および1564年(永禄7年)の記事に,この地の殿(西郷純尭)は平戸の殿(松浦隆信)と友好関係にあり,1564年に主家である有馬殿(有馬義貞)に背いたため,所領を接している島原殿は攻撃を受けるかと心配したと見え(フロイス日本史6・9),1570年代(元亀元年〜天正7年)初頭の記事の中では,「大村領と高来領の間に一人の殿がいて,その家名から伊佐早殿(イサハイドノ)と称している」とし,悪賢さ・謀略・欺瞞では第一人者であったと記している(フロイス日本史9)。1584年(天正12年)竜造寺と有馬・島津連合軍が戦った際,伊佐早城は竜造寺軍の拠点となった(同前10)。しかし,同年3月24日,竜造寺隆信は沖田畷で戦死し,竜造寺軍は総くずれとなった。伊佐早の西郷氏は深堀氏とともに竜造寺方であり,窮地に陥ったが,島津・有馬方には屈せず,天正14年には有馬を攻撃するとの風聞さえあった(上井覚兼日記天正14年7月18日条)。またフロイスの1587年(天正15年)の記事には「伊佐早(西郷信尚)は異教徒の殿で,ドン・プロタジオ(有馬晴信)の姉妹の息子,(すなわち)彼の甥にあたり,大村と高来の間に領地と城を有している。彼の亡父同様,つねに彼は有馬,大村両家の敵で,そうした理由から下のキリシタン宗団の敵でもある」(フロイス日本史11)とある。しかしこの年豊臣秀吉は,九州下向の際に西郷氏が参陣しなかったことを理由に,伊佐早城を竜造寺家晴に与えた。その次第をフロイスは,「本年,暴君(秀吉)が博多にいた時に,彼は伊佐早に関してよからぬ報告に接したので,(伊佐早から)その城と領地および封禄を没収する(事件が)生じた。関白はそれらを(竜造寺)家晴と称する他の殿に授与した」(同前)と記し,その後,肥後の佐々成政に対する反乱の鎮圧に家晴が出向いている間に,一度は西郷信尚が有馬晴信の援助で伊佐早の城を回復し,金・銀・武器を収めたことを伝えている。同様の記述は1587年の日本年報(イエズス会日本年報下)にも見られる。信尚はその後有馬領の西郷に逐われたが(同前),1590年(天正18年)の記事によれば,新しい領主竜造寺家晴はイエズス会巡察師ヴァリニャーノが少年使節を伴って都へ上る時,自領で一族とともに説教を聴き,城のあるその村で布教することを許したので,乙名たち17人がキリシタンとなり,自身も改宗したい姿勢を見せ(フロイス日本史2),その後宣教師に住宅や土地を提供した(日本切支丹宗門史上)。なお,西郷氏の城下として発展した伊佐早では中世末には近世へつながる町が成立している。元亀3年2月吉日付の為替手形には「肥前国いさはや上町忠兵衛替本」とあり,上町には替本(割符屋)がいたことが知られる(神宮文庫蔵宮後三頭大夫文書/歴史手帖5-12)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447321
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ