ケータイ辞書JLogosロゴ 一部(中世)


長崎県>生月町

 南北朝期から見える地名。肥前国松浦郡のうち。永徳4年2月23日の松浦党一揆契諾状は「山代文書」(佐賀県史料集成15)と「青方文書」(史料纂集)に残り,やや内容を異にする。前者の署名に「〈いきつきの一ふん〉大和守」,後者のそれに「〈いちふ〉大和守授」と見える。また,永享8年12月29日の松浦党一揆契諾状には「〈一部〉理」と見える(来島文書/県史古代中世編)。これら「一部」の地名を冠する一部氏は本姓は源で,松浦一党に属した。同氏の居館は現在の生月町壱部免に残っている(城郭大系)。下って,戦国末期になると,欧米史料にその名が見える。一部は籠手田安経の弟勘解由の所領である。もともと一部家を嗣いでいた松浦隆信の弟信賢が死んだあと,その未亡人が勘解由と再婚したため一部を称するようになったのだが(フロイス日本史9),勘解由自身は教名をジョアンといい平戸でも最も古いキリシタンであった。生月島での布教は1557〜58年(弘治3年〜永禄元年)頃から行われ,1561年(永禄4年)には一部に会堂ができていたらしいが,史料にはまだその名が見えていない。1564年(永禄7年)に平戸に教会ができると,この地にも宣教師がしばしば巡回するようになった。例えば,1566年(永禄9年)はじめに平戸付近を巡回したコスタ神父とフェルナンデス修道士は,生月(舘浦か)・堺目を経て「一部(Ychibu)と称するドン・ジョアンの町」に赴いて9〜10日間滞在している。そこにはもと寺院だった会堂があり,僧侶もキリシタンとなっていた(1566年3月3日ゴンサルベス書簡・同年9月15日フェルナンデス書簡/通信下)。一部家の庇護のためこの地の教会は安泰で,天正15年の豊臣秀吉のバテレン追放令の後は,生月の山田の教会と,一部との間にある教会に,イエズス会の学院・修練院・神学校が一時避難してきた。フロイスはこれについて,「学院と修練院が設置されている山田の教会では,そこからドン・ゼロニモの娘婿ドン・バルタザルの領内で一里あまり隔てた同じ生月島にある壱部まで(のところ)に別の教会があって,そこには都【みやこ】の神学校が,かの地から来た司祭や修道士とともに置かれている」と記している(フロイス日本史11)。一部勘解由の死後,一部がバルタザル(一部大和守正治)の所領となっていたこともわかる。フロイスは「ドン・アントニオ〈籠手田安経〉とドン・ジョアンの死後は(それぞれ)その息子で嗣子であるドン・ゼロニモ〈籠手田安一〉とドン・バルタザルが(家を継ぎ),(さらに)ドン・ゼロニモ(の次)には他の兄弟が後を継いだ」(同前12)と述べているが,慶長4年には松浦家のキリシタン政策転換で籠手田安一と一部正治がともに生月を追放された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447362
最終更新日:2009-03-01




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