ケータイ辞書JLogosロゴ 伊福村(中世)


長崎県>瑞穂町

 鎌倉期に見える村名。高来郡のうち。高来西郷に属す。当地は在地領主綾部氏の勢力下にあり,文治2年4月29日綾部幸房譲状によれば,幸房(法名浄心)は宇佐宮領の伊福・大河・伊古・御墓野を四男幸明(法名西念)に譲与し,幸明は正治2年閏2月日の譲状で「⊏⊐(宇佐カ)宮領肆箇所⊏⊐内伊福⊏⊐田畠同空閑」を三男松熊(道行)に譲与している(大川文書/鎌遺91・1123)。当時の伊福村については,建仁元年4月19日肥前宇佐宮神領目録に「伊福村 在家六家 畠一丁八段廿 苧四両二分 桑三十二本」と見え,建保5年9月14日肥前高来郡内宇佐宮領立券文には「伊福村 田壱町〈若宮神田〉畠壱町壱段 在家伍家 桑参拾本」と見える(同前/鎌遺1195・2335)。その後仁治年間に大河・伊福両村の支配をめぐって幸明の嫡子行元と道行との間で訴訟が起こったが,仁治2年8月22日の関東下知状で鎌倉幕府は,伊福村は正治2年に父西念より割分譲与されたとする道行側の主張を認め,同年11月12日に大宰府守護所下文が出されている(同前/鎌遺5918・5960)。こうして綾部氏庶流の道行の一族はこの地に根をおろし,伊福氏を称することになった。正元元年2月20日の譲状で道行(通幸)は「伊福村田畠屋敷空閑等」を嫡子惟澄(法名幸円)に譲り,幸円は正応5年12月20日の譲状で「伊福・大河両村⊏⊐屋敷并山野江河等」を嫡子幸資に譲与している(同前/鎌遺8370・18074)。翌正応6年4月2日幸円はさらに譲状を作成し,幸資一期の後は孫である幸継(法名幸蓮)に所領を譲ることを定め,永仁5年8月12日の譲状で高来西郷伊福・大河両村惣領職を幸資一期の後は反歩も残さず譲渡すとしている(同前/鎌遺18144・19428)。幸資は延慶元年11月に没し,その所領は嗣子幸継に移った。翌延慶2年2月,幸資の孫女藤原氏が一期領主幸資の譲状を有していると称して伊福村内田地1町4反・屋敷2か所を押領しようとしたが,幸継はこれを鎮西探題に提訴,元応2年8月6日の鎮西探題裁許状案によれば,氏女の押領を停止し幸継の領知を認める判決が下された(同前/九州史料叢書28)。幸継は元亨3年11月日多比良通世申状案には「高来西郷内伊福村地頭」と記され,正中3年2月19日藤原幸継・藤原幸妙・藤原幸朝等連署和与状では,幸継の亡祖母念阿弥陀仏知行分の伊福・大河両村内田地屋敷等を和与している(同前)。嘉暦3年5月13日,幸継は譲状を作成し,嫡子幸世に高来西郷伊福・大河両村地頭職山野河海等を,子息三郎幸満に高来西郷伊福・大河両村惣領地頭職内田地屋敷山野河海等(若宮免田1丁,山神田3反,浮免5反,宇佐役薗田)を譲った(同前)。幸世は,けんこう(元弘)3年9月25日の本物返状によれば伊福村内の幸世知行分の田地のうち5反を米6石の本物返しに入れ置き,同月27日の譲状で嫡子左衛門六郎に高来西郷伊福・大河惣領職を譲与している(同前)。伊福村の四至については,正元元年2月20日の藤原通幸譲状案に「限東横田尾登路 限西与見河 限南阿津馬岳 限北海」とある(大川文書/鎌遺8370)。東堺の横田尾は現在の瑞穂町伊福通称横田付近の地名と思われる。正安2年閏7月13日の沙弥時阿請文によれば,横田尾の内には地頭大川氏の屋敷の1つが存在した(同前/鎌遺20523)。西堺の与見河は不明であるが,瑞穂町の西部の権現川もしくは船津川であろうか。南堺の阿津馬岳は現在の吾妻岳に比定される。これらの四至から考えると,鎌倉期の伊福村は,現在の瑞穂町伊福の西部から吾妻岳の山麓を含み,同町古部の一部に及んだと考えられる。南北朝期・室町期においては伊福は史料上にその名をとどめていないようであるが,戦国末期の島津氏による九州征覇の道筋の中で再び現われる。天正12年2月,島津義久は肥後出陣を決し,3月には肥後佐敷に到着,島津軍は有馬において竜造寺軍と戦った。義久の重臣上井覚兼は4月3日,神代・伊福・森山の諸城を偵察,伊福城に降伏を勧め,諸城は5日に降り,6日に島津側へ明け渡された。覚兼は8日に伊福城に入り,6月末までとどまっているが,その間5月1日には温泉【うんぜん】山満明寺へ参詣しており,その帰路について「拙者ハ如井福直ニ罷帰候,七曲・十五曲なと申坂共候難所也」と記している(以上,上井覚兼日記/大日本古記録)。七曲や十五曲は当地特有の急勾配の険阻な坂であったと思われる。これらの坂の現在の比定地は不明であるが,温泉山〜伊福間の登山コース上にあったことは明らかである。なお,伊福についてはその他,こうあん(弘安)元年11月8日ともはる譲状案に,養父「おくしの七郎ひやうゑ入道」より譲られた肥前国伊福郷南方地頭職を「千代松女」に譲ると見えている(宮内庁書陵部所蔵文書3)。その後,1589年(天正17年)11月,イエズス会副管区長のコエリヨ神父が日本人修道士4人を伴って加津佐を出発し,有馬領内の山田・守山・西郷・伊福・多比良【たいら】を布教のため巡歴して,伊福では226人が受洗したことが「フロイス日本史」11に見えている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447396
最終更新日:2009-03-01




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