ケータイ辞書JLogosロゴ 今下町(近世〜近代)


長崎県>長崎市

江戸期〜昭和38年の町名江戸期は長崎内町の1町船手に属した長崎港に注ぐ中島川河口右岸に位置する享和2年の長崎絵図によれば,長崎の西端部に立地し,町並みは東西に延び,東は引地町,西は本下町に隣接していたはじめ本下町とともに内下町(下町)のうちにあったが,寛文12年分離して成立したこれは,長崎の各町は中国貿易の宿町制などで多額の利益があったが,町に大小があってその利益は一定ではなかったため,寛文12年に大町が分割され,利益の平均化がなされたことによる寛文12年の町の長さ90間,実箇所数30,諸役御免箇所4(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数1,534坪余(地子銀免除),箇所数32,竈数44,戸数58・人数180(男81・女99)乙名職は,享保年間頃の野口甚左衛門以来野口家が代々勤め,のち伊八郎,仁左衛門,善作などと続き,天保14年からは豊作が勤めた明治11年長崎区,同22年長崎市に属す大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には今下町公設市場・報徳銀行長崎支店や医院・病院があった昭和3年の戸数58,同10年の戸数53・人口318同38年賑町となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447410
最終更新日:2009-03-01




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