ケータイ辞書JLogosロゴ 宇久島(中世)


長崎県>宇久町

 鎌倉期から見える地名。松浦郡のうち。鎌倉後期と推定される年月日未詳の青方能高・峰湛相論文書案に「うくのしまにまかりわたるきさミ」「うらへよりうくのしまにわたり」と見え,また浦部と宇久とは1日渡海の距離ともある(青方文書/史料纂集)。次いで,延慶2年3月日の峰貞申状案によれば,青方高家(覚念)と宇久競は無二の親友であり,これに対し峰貞と宇久競は累代の敵であり,貞は覚念を放火狼藉・地頭敵対の重科に行われんことを訴えている(同前)。その後,正和元年6月24日の青方覚念請文案などによれば,青方高継は舎弟高光等を刃傷したため父高家より義絶され,宇久島の藤崎円智房頼慶後家のもとに居住していた(同前)。当地は宇久氏の本領であり,鎌倉末期には宇久湛・同披が見える(同前)。その後も,青方高継と舎弟高光の争いは続き,文保元年9月日高継は高光の狼藉を訴えている(同前)。両者の相論は青方村をめぐるものであったが,青方氏と宇久氏は姻戚関係にあったため,所領問題でも関係があったとみられ,高継方から証拠文書として「宇久島住人民部阿闍梨長弁〈本名法明〉」の自筆状が提出されている(同前)。ただし,元応2年8月日の青方高光申状案では,阿闍梨長弁と法明を別人とし,長弁の子孫は宇久島に多く,法明の子孫は奈留・大値賀・玉浦に多いとされている(同前)。この相論は,元応2年10月21日に高継と高光の和与が成立し,解決した(同前)。南北朝期に入り,建武元年6月27日宇久氏は宇久島内屋敷田畠を安堵された(同前)。また,正平21年8月22日宇久・有河の住人が網代の相論を裁定しており,この中に宇久覚の名が見える(同前)。永徳4年2月23日の松浦党一揆契諾状には,宇久勝のほか,「〈うくのたかせ〉因幡守広」「〈うくの江〉近江守伝」「〈うくのまつお〉伯耆守剛」の名が見える(山代文書/佐賀県史料集成15)。室町期には,応永20年5月10日宇久・有河・青方の住人などが宇久松熊丸を取立てることを契約し,同日付で宇久の住人26名が一揆契諾を結んでいる(青方文書/史料纂集)。「文宗恭順大王実録」辛巳文宗元年(宝徳3年)正月癸亥条に「日本国五島宇久大和源勝,遣延都等,来献土物」と見え,宇久の領主源勝が李氏朝鮮政府に土物を献じている(李朝実録之部2/日本史料集成)。その後も,「五島宇久守源勝」は,癸酉端宗元年(享徳2年)2度,乙亥世祖元年(康正元年)10度,丙子世祖2年(同2年)5度,戊寅世祖4年(長禄2年)1度,庚辰世祖6年(寛正元年)1度,辛己世祖7年(同2年)2度,壬午世祖8年(同3年)1度,癸未世祖9年(同4年)2度,甲申世祖10年(同5年)3度,乙酉世祖11年(同6年)2度,乙丑睿宗元年(文明元年)1度,庚寅成宗元年(同2年)3度,辛卯成宗2年(同3年)1度,壬辰成宗3年(同4年)1度,癸巳成宗4年(同5年)2度,甲午成宗5年(同6年)1度,乙未成宗6年(同7年)1度,丙申成宗7年(同8年)4度,丁酉成宗8年(同9年)1度,戊戌成宗9年(同10年)2度,乙亥成宗10年(同11年)3度,辛丑成宗12年(同13年)1度,壬寅成宗13年(同14年)1度,甲辰成宗15年(同16年)3度,丙午成宗17年(同18年)3度,丁未成宗18年(長享元年)1度,戊申成宗19年(同2年)3度,己酉成宗20年(延徳元年)2度,庚戌成宗21年(同2年)3度,辛亥成宗22年(同3年)2度,壬子成宗23年(明応元年)1度,癸丑成宗24年(同2年)2度,甲寅成宗25年(同3年)1度,己未燕山君5年(同8年)2度,壬戌燕山君8年(文亀2年)3度,甲子燕山君10年(永正元年)1度,それぞれ李氏朝鮮政府に使者を派遣し,通交している(李朝実録之部2〜5/日本史料集成)。また,宇久の名は中国で作成した日本地図にも見られる。たとえば,明朝末期の嘉靖40年(永禄4年)成立である「日本図纂」の日本国図,同年頃成立の「万里海防論」の日本国図(以上,日本地図史)および万暦5年(天正5年)成立の「図書編」の日本国図に「烏苦」と見える(文淵閣四庫全書子部46)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447468
最終更新日:2009-03-01




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