ケータイ辞書JLogosロゴ 浦福地(中世)


長崎県>諫早市

鎌倉期に見える地名肥前国高来【たかき】郡伊佐早荘のうち文永8年11月19日の関東下知状に「肥前国伊佐早庄長野村内浦福地事」と見える(宗像神社文書/鎌遺10918)同文書によれば,同地の本主は江大夫助宗と子息高宗であったが,正治2年12月4日に養子源三傔仗納に譲り,元久2年2月6日に安堵の関東下文を給わり,さらに納は承元2年4月に弟源左近将監達に譲り与え,同3年12月13日に関東下文を給わったところが建暦3年閏9月に達は宗像大宮司氏国に沽却し,氏国は貞応元年7月13日に関東下文を給わり,嘉禄3年閏3月に弟兵衛尉氏経に譲り,氏経は孫の氏業・氏郷らに分譲したこれに対し船津次郎家重は,治承3年に家重祖父高家が江大夫助宗から子息高宗の署判を加えて同地を譲り受けたと称し,また,氏業・氏郷を非御家人であるとして訴えたが,幕府はこの訴えを退けて氏業らに同地を安堵し,宗像氏は氏国の父氏実以来代々の御家人であるとした現在浦福地の地名は見えないが,現諫早【いさはや】市川内町内に西福・福地新替の地名があり,その一帯は中世の干拓地と推定されている浦福地の「浦」は当地が海浜にあったことをうかがわせており,あるいは干拓によって生まれた土地であるため「浦福地」という嘉名をつけたのかもしれない
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447527
最終更新日:2009-03-01




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