ケータイ辞書JLogosロゴ 永昌名(近代)


長崎県>諫早市

 年不詳〜昭和57年の行政区名。明治22年北諫早村栄田,大正12年諫早町,昭和15年からは諫早市のうち。明治31年九州鉄道門司〜長崎間が開通し,諫早駅が永昌宿の坂下の水田の中にできた。明治44年島原鉄道諫早〜愛野間が開通し,2年後には島原湊(現南島原)まで延長された。諫早駅を結節点として長崎・大村・佐世保,さらに島原半島に通じる県下の陸上交通の中心地,物資の集散地としての地位を高めた。明治35年当時の絵図では諫早駅付近一帯は一面の水田で民家が1軒建っているだけであった。その後鉄道利用者の増加に伴い飲食店・土産物店・商人宿・運送屋などが四面橋から鉄道線路のすぐ下の東側の道路に建ち始めた。大正5年片倉合名会社,同9年片倉製糸紡績設立,同10年長崎製糸が長崎市から移転。昭和8年の女工数550名,生糸生産額20万貫で,上級品は欧米諸国に輸出された。大正9年8月県農事試験場が長崎市から移転し,農業試験研究と農業指導に大きな役割を果たすようになると県下各地から研修・見学なども多くなり,諫早駅付近の発展に大きく寄与した。農事試験場は農場・研究室などが狭隘となったため昭和36年市内の通称貝津町に移転し,跡地には農協の諸施設,醤油工場などが建ち,傾斜地は住宅地となった。昭和9年には九州各地や本州方面との運輸能力の向上と時間短縮を目的として諫早〜肥前山口間を結ぶ国鉄有明線(現国鉄長崎本線)が開通した。昭和17年海軍省が片倉製糸を買収し,佐世保海軍病院諫早分院の建設に着手。同21〜27年原爆で被災した鎮西学院が諫早分院跡の一部を校舎として使用。また諫早分院跡には昭和21年に同じく原爆で被災した長崎医科大学と付属病院の本部も移された。翌22年基礎医学教室および学生の一部は長崎市浦上の旧外来館および高北病院に復帰。同36年健康保険諫早病院が開設され同47年2月健康保険諫早総合病院となった。昭和18〜26年には鉄道東側と本明川の間の区画整理事業が行われ,道路も整備された。戦後は長崎市への通勤者などが駅周辺の永昌名・栄田名・輪内名・宇都名などに住宅を建てたため人口の増加も著しく,短期間に商店・飲食店が立ち並んだ。地内は鉄道線路を境界にして,第3次産業を主とする東部と,農業を主とする西部に分かれるが,昭和26年4月東部が新町起立して永昌東町となった。同30年4月宇都名・永昌名・永昌東町・栄田名の児童数激増のため北諫早小学校から独立して御館山小学校が創立。戦前は農家がほとんどであったが,戦後は農地が木造の市営住宅や個人住宅の宅地となり,同54年頃から市営住宅も木造から4階建の鉄筋コンクリートの住宅団地となり,農家はほとんど姿を消してしまった。昭和49年一部が永昌東町に編入,同55年新町名設置により一部が宇都町・永昌町・栄田町となり,残余は同57年宇都町・永昌町・永昌東町に編入して,行政区は廃止。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447537
最終更新日:2009-03-01




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