ケータイ辞書JLogosロゴ 大草村(近世)


長崎県>多良見町

 江戸期〜明治22年の村名。肥前国彼杵郡のうち。はじめ佐賀藩諫早【いさはや】領,寛延3年諫早領主諫早茂行の不調法により上知された14か村の1つとして佐賀本藩領となり,明和4年からは再び諫早領となる。諫早郷に属す。村高は,「正保国絵図」「元禄国絵図」「天明村々目録」ではともに80石余,「天保郷帳」131石余,「旧高旧領」117石余。「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」ではともに給人は諫早豊前(諫早領),地米高は75石余。「日記」所収の寛延3年の上り地村々石高目安(県立長崎図書館諫早文庫蔵)によれば,本地分は田15町余・畔2反余で地米67石,ほかに銀213匁余(山林33町歩)・畑7町余・茶1畝余で地米11石余,麦地6斗余,新地分は作新田9反余・新田1町余・新畑11町余・茶6歩余で地米12石余,合計すれば地米は91石余となる。天保3年の「諫早私領田畑石高帳」は喜々津村と合わせて記しているが,その作り直し前の石高帳では田畑茶畦22町余で米78石余,出来畑8町余で地米4石,合わせて米(地米)83石余となっている。産業では薪炭生産・薪用材積出しなどが盛んであった。漁業は喜々津舟津が諫早領の海の漁業権を独占しているため行われず,当村の船舶は明治18年に至っても50石未満の荷船のみであった(郡村誌)。江戸期の近距離交通には小舟がよく用いられた。村の氏神は十六善神社(浮津神社)で,安痘守護の霊神として近隣からの参詣も多く,領主からも代参があった。明治4年佐賀県,伊万里県を経て,同5年長崎県に所属。明治9年大草小学校が設置され,同14年には初等大草小学校と改称。明治11年西彼杵郡に属す。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西23町余・南北14町余,地勢は「正東ヨリ左旋シ乾位ニ至ルマテ虚空蔵岳及ヒ元釜山米ノ山等相連接シテ高ク聳エ三面ヲ塞キ,乾位ヨリ環テ正東ニ至リ平夷ニシテ海ニ瀕ス,其勢イ屏風ヲ列シ一面ヲ開クカ如シ,運輸便利,薪炭共ニ余リアリ」,地味は「其色黒ク,其土砂磧,其質中,稲粱ニ宜ク雑穀ニ適ス,水脈較ヤ厚ク,旱ニ苦ム少ナリ」とあり,村内は東園名・西園名・野副名・元釜名に分かれ,税地は田16町余・畑22町余・宅地1町余・山林5町余の合計44町余,改正反別は田36町余・畑62町余・宅地7町余・山林228町余・秣場38町余・物置場5畝余・藪4畝余などの合計374町余,地租は米105石余・金546円余,国税金は11円余,改正租金は595円余,戸数は本籍242・社1(村社)の合計243,人口は男540・女537の合計1,077,牛3・馬43,船8(50石未満荷船)。また,学校は野副名に大草小学校が設置され,生徒数は男のみ34,神社は西園名に村社の浮津神社が鎮座し,民業は農業229戸・工業10戸・商業3戸,物産の産出高は米394石余・麦158石余・粟15石余・大豆20石・甘薯30万斤・馬10頭・材木3,000本・薪60万斤・柴30万把,輸出高は材木3,000本・薪60万斤・柴30万把で,大村や喜々津村などの地方へ輸送されると記される。明治22年市制町村制施行による大草村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447616
最終更新日:2009-03-01




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