ケータイ辞書JLogosロゴ 大野(中世)


長崎県>有明町

 南北朝期から見える地名。肥前国高来【たかき】郡のうち。建武5年2月9日の一色道猷(範氏)地頭職充行状に「温江大野田崎村内〈孫次郎入道・同四郎・同小次郎跡〉田地玖町」と見える。深堀弥五郎政綱は,同状と同年3月17日の小俣道剰施行状をもって,肥前国伊佐早荘戸石村・湯江大野田崎村・長瀬村の田地の地頭職を勲功の賞として充行われた(深堀文書/南北朝遺1129・1149・1150)。さらに暦応2年8月27日の一色道猷書下によれば,湯江弥次郎が,深堀政綱への湯江大野田崎村の地頭職充行に対し支状を提出したが,証状の不出帯により,同地は政綱に付せられた(同前/南北朝遺1388)。下って戦国期天正年間,島原半島制圧を目論む竜造寺氏を阻止するため島津氏は半島へ出兵するが,「上井覚兼日記」によると,天正12年4月5日には島津方の伊集院忠棟が大野に宿していたことが知られる(古記録)。また,1584年(天正12年)8月31日付フロイス書簡の,同年竜造寺隆信が戦死した後,高来の諸城が降伏した次第を述べた一節の中に,「高来領内の最後の城大野の守将は裕福でなかったが,隆信はこの地を安全にして便利なる所と考へ,ここを貯蔵所とし,火薬多量及び大砲二門,米千俵,その他砦を破壊すべき鉄の鉤ならびに衣服の函,武具及び兵器等を置いてあった。大野は隆信が死すると同時に叛いて,真の領主であるドン・プロタジヨ(有馬晴信)の味方となり,敵が同所に置いた物は悉く彼の有に帰した」と見えている(イエズス会日本年報上)。「フロイス日本史」10にも同じ内容の記事があり,城主がその1年後キリシタンとなったことを伝え,1588年(天正16年)の記事にも,「この城はドン・プロタジオの配下にあって,城主とその妻子はキリシタン」とある(フロイス日本史11)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447669
最終更新日:2009-03-01




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