ケータイ辞書JLogosロゴ 尾戸村(近世)


長崎県>琴海町

 江戸期の村名。肥前国彼杵郡のうち。大村藩領。内海【うちめ】地区に属す。「元禄郷帳」「天保郷帳」には村名が見えず,「大村郷村記」に「形上村之内」として形上・小口浦の各村とともに尾戸村の名が見える。形上村の枝村の1つであったが,幕末には一定度独立した村として扱われることもあったのであろう。村高は,文久2年内検高108石余,うち田高82石余・畠高26石余(大村郷村記)。「大村郷村記」によれば,文久2年の村況は,東西1里4町・南北11町,広さ528町余,うち田地12町余・畠地28町余(うち切畠1反余)・山林野486町余,年貢上納は米44俵余・小麦1斗余,竈数136,うち小給1・浦百姓7・浦間百姓3・私領125,人数764(男381・女383),宗旨別人数は法華宗741・真宗23,牛111,運上を納める諸職業の軒数は染屋株1・揚酒株1・鍛冶株1・塩問屋株1,販売商品として橘・芋をあげ,村内には網ケ浦・浦底浦・矢別浦・入道ケ浦・煤りの浦があり,船数28,神社は当村鎮守の八幡宮,山の神,八大竜王があると記される。また,当村は往古は牧場となり,石垣の残骸や馬垣の地名が残る。延享元年当村開発のため田中勝右衛門が手代,岩永太兵衛・原口源七・原口清兵衛が闢方役に任じられ,同2年塩焼きの者2竈・男女5人がはじめて移住した。同3年安芸国の欠落者2家男女10人が居住するようになった。安永8年には郡役夫をもって地内の矢別・張岳・瀬の浦・木折で1町3反余が開発され,天明7年からは針尾半左衛門の知行地となったという。「旧高旧領」には当村名のみならず形上村の名も見えず,長浦村921石余のうちに含まれているとみられ,幕末・維新期までに当地を含めた形上村全体が長浦村の一部となった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447749
最終更新日:2009-03-01




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