ケータイ辞書JLogosロゴ 貝俣島(中世)


長崎県>若松町

鎌倉期に見える地名肥前国松浦郡宇野御厨のうち狩俣島・海俣島とも書き,「かいまたのしま」ともいう正応2年3月4日青方覚尋譲状案によると,青方覚尋(能高)は,貝俣島を含む青方浦部島地頭職を,子息青方高家に一旦譲ったものの器量なきにより悔い返して波佐見親平に譲っているしかし,延慶3年10月6日鎮西探題御教書案によれば,狩俣島を押領したとして高家が親平を訴えていることが知られる応長元年7月10日鎮西探題御教書案は,この件について実否を尋問し注申することを多久宗経・隈兵衛太郎に命じているが,年月日不明の鎮西探題御教書案によれば,親平は召文に応じていない応長元年7月日青方覚念申状案によると,覚念(高家)は,「覚念所領浦部島内狩俣島并同島以下浦々」を親平が押領し,峰貞に沽却したと述べその不法を訴えている同年9月20日文紹・青木頼親連署書下案は,狩俣島以下浦々の事について,親平に陳状を催促している以後も両者の相論は続くが嘉暦2年に至り,同年6月日青方覚性申状案によると,貝俣島については,高家の2人の子息覚性(高継)・高光の間で争われている同文書によれば,高継は,峰貞と内通したとして弟高光を訴えている鎮西探題は,同年7月4日の御教書案において,高光に貝俣島以下の事につき参対を命じたが,同年8月17日の御教書案では,高光が参対しないので実否の尋問を丹後五郎省に命じている嘉暦2年11月日青方覚性申状案によれば,高光が峰貞と内通し波佐見親平の跡の輩に対し濫訴した事および貝俣島以下の事について,高継が重ねて訴えている一方,永仁6年6月29日関東使者義首座注進状案には,「唐船四月廿四日於海俣放洋〈辰末〉,於有□破損〈巳初〉……仍樋島在津人百姓等以船七艘運取御物以下金帛」と見え(以上,青方文書/史料纂集),永仁6年4月24日に海俣島付近で船が破損し,近くの日島の漁民・百姓が積荷を奪ったこの難破船は幕府の要人がチャーターした渡唐船と思われ,幕府は同年6月,義首座を幕府の使者として派遣し,その積荷の返還を当島の領主である青方氏に迫っている現在の若松町,若松島に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447803
最終更新日:2009-03-01




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