ケータイ辞書JLogosロゴ 樫滝村(近世)


長崎県>上県町

 江戸期〜明治41年の村名。対馬国上県【かみあがた】郡のうち。対馬藩領。伊奈郷に属す。瀬田・飼所とともに仁田3か村とも総称される。寛永15年の「毎日記」に「かしたけ」と見える(県史藩政編)。また,「しもはる」と見える村名は枝村の下里村を指すか。「寛文検地帳」(県立対馬歴史民俗資料館蔵)では瀬田村と合わせて仁田瀬田村と記されている。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」にも村名が見えるが,村高は記載されていない。「元禄郷帳」「津島紀事」「天保郷帳」には当村とは別に下里村の名が見えるが,「天保郷帳」では当村の枝郷と注記されている。元禄12年郷村帳(県史藩政編)によれば,物成77石余,戸数43・人数265(10歳以上),給人6・公役人20・肝入2・猟師15,寺2,牛14・馬8,船4。また在家が樫滝・下里の2か所にあり,寺院は禅宗泉福寺・天台宗福昌寺と記されている。肝入が2人いるのは在家が2か所あるからである。貞享年間の神社誌には,三宝荒神と下里村の軍大明神があり,三宝荒神については「里中ニ有之,右ハ樫滝村無残焼失ニ付,延宝年中ニ祭始之,祭礼之義三月二八日ニ村中ヨリ穀物二斗程持寄,神楽仕ル」と記されている。明治4年厳原【いずはら】県,伊万里県,同5年佐賀県を経て,長崎県に所属。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西約10町・南北約30町,地勢は「東ニ亀岳ノ山脈ヲ負ヒ,北方ニ瀬田川,東方絹巻川ノ巨流ヲ受ケ,全村水ニ浸ス年ニ五七回,故ニ土地饒ト雖共其穀物ヲ得ル或ハ痩土ノ下ニ居ル,而シテ南境ノ地稍延テ山林・薪材ニ冨ミ,西岸越ノ坂アリ,運輸ニ便ス」,地味は「其色黒クシテ粘セス,其質ハ上ノ下,稲・粱・大豆ニ可ナリ,而シテ其山畠ハ甘藷ニ適ス」とあり,税地は田2町余・畑20町余・宅地3反余の合計71町余,改正反別は田43町余・畑40町余・宅地2町余などの合計157町余,地租は米7石余・麦72石余,国税金は40銭余,改正租金は263円余,戸数は本籍45,人口は男129・女124の合計253,牛26・馬50。また,学校は仁田小学校が設置され,生徒数は男59・女3,民業別戸数は農業38・工業4,物産は米95石・糯米20石・大豆29石・小豆3石・大麦160石・小麦12石・甘藷25万斤・蕎麦76石・粟25石・煙草250斤,なお木炭4万斤は朝鮮釜山港へ輸出と記されている。同24年の幅員は東西3町・南北3町余,戸数46・人口270(男144・女126),厩40,学校1,小船9(徴発物件一覧表)。明治41年仁田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447826
最終更新日:2009-03-01




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