ケータイ辞書JLogosロゴ 樺島(中世)


長崎県>野母崎町

 南北朝期から見える地名。肥前国高来【たかき】郡伊佐早荘のうち。康安元年11月29日の重広所領譲状で「ひせんのくにいさはやのしやう(の)うち,ひのミさき,そのうちかハしま」が深堀氏の一族と思われる重広から又五郎殿に譲られており,樺島は伊佐早荘肥御崎のうちであったことがわかる。また,応安7年6月27日のみたとく丸くんちう用途請取状によれば,ミたとく丸が正平23年〜応安7年6月27日までの「(か)はしまのくんちうようとう」2貫788文を請取っている(以上,深堀文書/佐賀県史料集成4)。下って戦国期,「天正年中日々記」には,朝鮮出兵に際し名護屋へ向かった島津義久が天正20年5月29日から6月1日まで樺島に滞在したことが見える。また,「大島久左衛門忠泰高麗道記」によると,文禄2年,朝鮮へ赴く島津義弘に従い出船した大島忠泰は,同年4月15日から21日まで樺島で風待ちをし,24日には平戸へ着き,25日に一気に対馬へ渡ろうとしたが大風に遭い吹き戻されたため,8月に再び出船し,同月13日に樺島で1泊し,14日に平戸へ着いている(以上,旧記雑録後編2)。なお,「日本潮路ノ記」によれば「松島より樺島へ十八里,此間に野母崎と云処あり……樺島の入口に開キ瀬あり入ル時は面梶に添て入る樺島ノ口にワキと云泊りあり此間に島一ツあり此島の右も左も通る但脇泊りは日和に因てかゝる樺島泊りは奥に水ノ浦と云処ありしけの時は山下風強くてあし口ノ方程よし樺島より口ノ津へ十八里樺島の東の出口に瀬あり島より一町程東ノ沖なり」と見えている(太宰管内志下)。一方,イエズス会などの通信記録によれば,1567年(永禄10年)にイエズス会のサンチェズ修道士が天草の志岐からはじめて樺島で布教した時,当地の領主は4年余前にキリシタンとなっていて,数年来神父の来島を希望していたとあり,また「この島は領主の許可なくして船舶これを通過すること能はず,この地を過ぐる船舶は悉く敬意を表せんため入港するがゆえに,異教徒ならびにキリシタン多数あり」と見える。この年,ビレラ神父は,樺島で天候待ちの間に多数に洗礼を与え(1568年バズ書簡/同前),その後「小さき島なる樺島(Cabaxima)には人口これに過ぎざるをもって約四百人のキリシタンあり,また二つの会堂あり」と伝えている(1571年10月20日ビレラ書簡/同前)。1570年(元亀元年)カブラル神父も志岐から樺島に赴いてキリシタンを見舞い,数人を信者にした(1570年10月15日アルメイダ書簡/通信下,フロイス日本史9)。樺島は長崎へ向かう航路の目標であった。1585年(天正13年),リンスホーテン編「大航路誌」は,「カベシュマ島は其北端に岩礁を有する長き平坦なる島なり……有馬の港に近く,寧ろ北方に当りて,カベシュマの島あり,其内側に当りて,極めて良き港あり……外洋に臨める其岬角の一端に一岩礁あり,帆の如し,其岬端に接近せざれば之を見る事能はざるなり,其岬の北岸に数箇の他の岩礁あり」として,長崎に至るには樺島と付近の岩礁に沿って,大洋の方に航路をとり,伊王島の方向へ進むべしと指示している(大日料11-7)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447874
最終更新日:2009-03-01




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