ケータイ辞書JLogosロゴ 狩尾村(近世)


長崎県>峰町

 江戸期〜明治41年の村名。対馬国上県【かみあがた】郡のうち。対馬藩領。三根郷に属す。寛永15年「毎日記」に「かれう」と見え,また「くちへ」の名も記される。村高は,「寛文検地帳」9石余(県立対馬歴史民俗資料館蔵)。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」に村名が見えるが,村高は記載されていない。正保2年の物成22石余,うち籾2石余・麦20石余(対馬二郡物成/宗家文書)。元禄12年郷村帳(県史藩政編)によれば,在家2か所(狩尾・口江)とあり,物成32石余,戸数24・人数115(10歳以上),公役人16・肝入1・猟師3,牛6,船9,寺1・社1。明和5年公儀役人廻村答書によれば,年貢35石余,戸数22・人数134(宗家文書)。湾口に近い口江は久津江とも書いたが,正保2年対馬二郡物成では当村とは別に一村として見え,麦19石余と記されている。また「元禄郷帳」でも一村として見えるが,「天保郷帳」では狩尾村枝郷と注記されている。村内に耕地が少ないため,願い出て他村域をも開拓した。文政2年4月12日の郡方日記に狩尾村給人扇茂一郎が吉田浜潮入3斗余の干拓を許可されたという記述がある。寺院は禅宗東光寺がある。明治4年厳原【いずはら】県,伊万里県,同5年佐賀県を経て,長崎県に所属。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西約13町余・南北約6町許,地勢は「三面山脈連リ,只東南ノ一帯海ニ臨ミ,吉田・賀佐ノ二村ニ対ス,后山七支ヲ発シ谷又七条,民家ハ中央ニ谷ノ海辺ニアリ,耕地ハ諸渓ニ散布シ,運輸便ニシテ薪林乏シカラス」,地味は「其色或ハ淡赤或ハ黒ク,而シテ礫ヲ交フ,甘藷ニ適シ稲・粱ニ可ナラス」とあり,税地は畑11町余・宅地3反余・山林2町余の合計14町余,改正反別は田3反余・畑12町余・宅地8反余・山林45町余などの合計59町余,地租は麦41石余,国税金は3円余,改正租金は37円余,戸数は本籍27,人口は男74・女71の合計145,牛27・馬2,船6(50石未満艀船)。また,学校は仁田小学校狩尾分校が設置され,生徒数は男6,民業別戸数は農業25・工業1,物産は米4石・大麦147石・小麦3石余・大豆9石余・蕎麦38石・粟1石余・甘藷7万5,000斤(うち厳原に移出6,000斤),ほかに厳原港に移出するものとして布海苔100斤・干和布1,500斤・烏賊300斤が記されている。明治24年の幅員は東西25間・南北2町余,戸数28・人口145(男77・女68),厩21,学校1,小船31(徴発物件一覧表)。明治41年峰村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447922
最終更新日:2009-03-01




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