ケータイ辞書JLogosロゴ 河棚(中世)


長崎県>川棚町

 鎌倉期から見える地名。肥前国彼杵【そのぎ】郡のうち。正応4年6月日の肥前河棚住人秋丸恒安申状案に「河棚住人秋丸恒安」と見える(青方文書/鎌遺17635)。同文書によれば,河棚の住人であった恒安が,塩田大貫殿なる人物の下人の売買のため,五島に下向した際,青方において山賊にあい所持物を奪われたが,その犯人は,宇野御厨内青方を本拠とした鎌倉御家人の青方高家の下人弥五郎および五郎三郎であるとして,使者を高家の許へ派遣し,下手人を重罪に処すことを幕府に求めたものである。これについては,同28日に,調査のため下手人を召進めるべき旨の鎮西奉行連署書下案が青方高家宛てに下されている(同前/鎌遺17636)。下って,正和4年7月22日の鎮西裁許状には,「当庄河棚村一分領主河内弥五郎入道観盛」,同27日の鎮西裁許状には,「当庄河棚一方領主又六入道々性」と見える(尊経閣文庫所蔵文書/鎌倉幕府裁許状集下)。また,元亨3年6月25日の鎮西裁許状には「河棚浦一分領主源二郎入道々妙」と見える(田中繁三氏所蔵文書/同前)。これらの文書は河棚一分領主らが,彼杵荘の領家代が一度も惣検注を遂行せず,年貢・済物などを未進している事態に対し,幕府が惣検注の遂行と年貢の決算を命じたものである。正和元年に「鎮西五社神領興行令」が出されて以後,九州の在地領主層は幕府への反抗の姿勢を強め,荘園領主に対しても年貢対捍を行うに至っていたが,河棚の在地領主も未進をこととし,幕府の出頭命令も無視して,自立的な動きを示していたものと思われる。なお元応2年□月27日の東福寺領肥前彼杵荘文書目録案には,彼杵荘雑掌が鎮西探題の下知を受けた分として「同庄河棚村一分領主中山四郎入道永心分」「同浦一分領主源五郎入道々永分」「同浦一分領主三位房跡分」「同浦一分領主七郎盛俊分」の記載があり,河棚浦が多数の一分領主によって分割知行されていたことがうかがわれる(東福寺文書/大日古20-3)。なお,南北朝期の正平17年9月日の彼杵一揆連判状写に「河棚源三郎源盛貞」他5名の河棚姓の小領主が見える(福田文書/中世九州社会史の研究)。下って,応永27年,志佐白浜の領主源沙弥道林は大般若経600巻を河棚村鎮守長浜大明神へ施入しているが,この奥書に「河棚村」「七浄寺」の名が見える。七浄寺は現在の上組郷にあり,寺内には多数の宝篋印塔があり,中には応永5年・文明10年の陰刻をもつものがある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447929
最終更新日:2009-03-01




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