ケータイ辞書JLogosロゴ 河内村(近世)


長崎県>上対馬町

 江戸期〜明治41年の村名。対馬国上県【かみあがた】郡のうち。対馬藩領。豊崎郷に属す。村高は,「寛文検地帳」では大浦村・河内村・左河内村を合わせ43石余(県立対馬歴史民俗資料館蔵)。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」にも村名が見えるが,村高は記載されていない。慶安3年宗義成の大浦四郎左衛門宛の書状に,中河内を河内と改称する旨が記されており,古くは中河内とも呼んだらしい(大浦家文書)。「元禄郷帳」「天保郷帳」には当村枝村として左河内村の名が見える。「津島紀略」には「河内〈加布地〉,在大浦之南七町,去府廿一里廿八町,有枝里,曰狭河内〈佐加布知〉,在河内之西八町」とある。元禄12年郷村帳(県史藩政編)によれば,枝村として左河内があり,当村の村高のうちに含まれ,物成25石余,戸数22・人数93(10歳以上),給人4・公役人2・肝入1,寺2・社1,牛11・馬5,船5。また寺院は曹洞宗宝光寺・同宗海寿寺がある。貞享年間の神社誌には,川内村に荒神と夷,左河内村に岩立権現と夷三郎があると記されている。宝光寺は大浦氏の寺で,河内にあったが後に左河内に遷った。現在は比田勝に移って宝林寺と称している。当寺に伝わる高麗の燭台は,中世の頃大浦氏が朝鮮に通交した時に渡ってきたものと思われる。明治4年厳原【いずはら】県,伊万里県,同5年佐賀県を経て,長崎県に所属。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西約11町40間・南北約17町,地勢は「東・南・西ノ三面ニ小丘ヲ負ヒ,唯北方独リ海湾ヲ扣ク,村中丘阜多ク又二条ノ小流ヲ帯ブ,運輸不便,薪・炭乏シカラズ」,地味は「其色赤黒,其質沙礫間□軽墳ヲ加フ,稲田ナク桑・茶ニ適シ麦種・甘薯最モ可ナリ,水利飲料ニ供スルモノゝミ不乏」とあり,税地は畑9町余・宅地2反余・山林36町余の合計46町余,改正反別は畑20町余・宅地1町余・山林110町余などの合計131町余,地租は米1斗余・麦32石余,国税金は14円余,改正租金は76円余,戸数は本籍23,人口は男71・女76の合計147,牛23・馬20,船14(50石未満艀船)。また,神社は岩滝神社が鎮座,寺院は曹洞宗地陽山宝光寺があり,学校は佐須奈学区河内分校が設置され,生徒数は男10,古跡として結石山古城・内方山古城があり,民業は農業,物産は大麦230石・大豆10石・小豆12石・蕎麦20石・甘薯8万斤・杉260本・椿油6斗・煎海鼠50斤・干和布1,000斤で,椿油・煎海鼠・干和布はすべて厳原港に移出すると記されている。同24年の幅員は東西6町・南北5町,戸数26・人口163(男82・女81),厩24,寺院1,小船21(徴発物件一覧表)。明治41年豊崎村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447943
最終更新日:2009-03-01




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