ケータイ辞書JLogosロゴ 木坂(中世)


長崎県>峰町

 室町期から見える地名。対馬国のうち。三根郡に属す。応永27年8月5日付の宗国時書下写(三根郷御代々御判物写/県史史料編1)によれば,当地にある上津八幡社の造営に「きさか民部」が尽力したため加地子を免ぜられていることが見える。寛正4年9月17日付の宗盛直遵行状写(同前)に「対馬国三根郡木坂御神領之内」と見える。寛正年間と思われる年未詳10月25日付の宗盛直書状写(同前)によれば,「きさかの鳥居」建立にあたり,「かうつこほり中」(上津郡中か)に御子・法師・布1反ずつの供出が命じられている。また預所も置かれたらしく,享禄4年11月30日の惣宮司慶家譲状写(同前)の宛名に「きさか預所」と見える。また享禄5年6月1日付の峰貞勝書下写(同前)に「一,きさか大たけの茶ゑん壱ケ所」と見え,茶園が経営されていたことがわかる。天正10年2月9日付の宗昭景八幡宮昼夜結番注文写(宗家御判物写/県史史料編1)によれば,木坂八幡宮の結番のうち木坂供僧は6・7月を担当することになっていたことがわかる。なお,宝徳3年正月11日付の祐覚書下写(三根郷御代々御判物写/県史史料編1)によると,当地の「みねのこんけんしや」の社壇造営のために行う勧進が,朝鮮三浦(斎浦・釜山浦・塩浦)の日本人居留地に分祀された「さこほんしや」の公事として居留人に充て課され,勧進のために「ミの坊」という宮司が三浦に赴いていることがわかる。木坂八幡宮が,朝鮮の日本人居留地社会にあっても信仰の対象となり,国際的環境の中で造営されていたことがうかがえる。なお,木坂八幡宮(海神神社)に現存する神宝として,統一新羅時代の如来形立像(御神体として伝えられてきたもので国重文),中国の湖州鏡・高麗鏡・和鏡などの古鏡,鎌倉末期〜南北朝期の舞楽面9点などがある(対馬の美術)。古くは,大中4年(嘉祥3年)の銘をもつ新羅鐘や正平8年の鰐口のほか,磧砂延聖院版の大蔵経4888巻があったという。大蔵経は遠くへ売られていったとのことである(対馬の古跡)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7447966
最終更新日:2009-03-01




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