ケータイ辞書JLogosロゴ 口之津(中世)


長崎県>口之津町

 戦国期に見える地名。肥前国高来【たかき】郡のうち。年未詳5月2日付大村純忠書状写に,南蛮船が横瀬浦・平戸間に着岸すると武器が敵方の手に渡る恐れがあるため,福田・戸町・口之津辺に着岸させるようにという純忠の要請が見える(福田文書/中世九州社会史の研究)。島津家の重臣上井覚兼の「上井覚兼日記」天正12年4月10日条によれば,島津氏の援助をうけて前月島原に竜造寺隆信を戦死させ島原半島を支配下に入れた有馬晴信のもとに,大村(同年4月9日条に見える,島原に籠城した大村衆のことか)より人質が送られることになり,この日人質たちは口之津に着岸したことが知られる(大日本古記録)。文禄2年,朝鮮出兵に際し島津義弘とともに出船した大島忠泰は,「大島忠泰高麗道記」や8月29日付の書状の中で,8月12日に口之津へ着き一晩停泊したことを述べている(旧記雑録後編2)。ところで,大村純忠の領内横瀬浦港にポルトガル船が入港するようになると,有馬義貞も使者をイエズス会上長トルレス神父に送り,口之津港の教会への提供,布教と教会建設の許可,希望者をキリシタンにする許可などを伝えさせた。トルレスは1563年(永禄6年)アルメイダ修道士に有馬義貞を訪問させ,その結果アルメイダは口之津の町にあてて住民が説教を聞くべきことを命じた書状と,義貞の全領内での布教を許可したトルレスあての書状とを手に入れた。アルメイダが口之津に着くと,「国主がその地(の統治)を委ねている殿の邸」に泊められ,領主とその妻子,その他250人が洗礼を受けた。その後,仏寺を教会とし,十字架を高所に建立した。この地所家屋は有馬の領主から与えられたもので,口之津が人口が多く,日本全国から人の来る港であったため,アルメイダはこの地を重視し,日本人説教師を留めておいた。しかし横瀬浦焼打ちの後,有馬仙巌は領内に禁教令を出した(フロイス日本史9,1563年11月17日アルメイダ書簡/通信上)。しかし,口之津は1563年(永禄6年)には全住民がキリシタンとなり,一時出ていた禁教令も翌年には撤回され,1564年(永禄7年)トルレス神父が移って来たので,近隣からキリシタンが参集し,移住する者もふえてきた(フロイス日本史9,1564年10月3日フロイス書簡・1564年10月14日アルメイダ書簡/通信上,1566年5月25日フィゲイレド書簡・1566年10月20日アルメイダ書簡/通信下)。口之津が布教の中心となると,迫害にあったキリシタンが移住する例も出てきたので,近隣の領主は監視を強めた(フロイス日本史9,1565年10月25日アルメイダ書簡・1567年11月22日バズ書簡/通信下)。1568年(永禄11年)の史料では,住民は悉くキリシタンで殿(領主)はドン・レアンという人物であったとある(1568年9月4日バラレッジョ書簡/通信下)。同年アルメイダは,口之津は小さな町で約1,200の人口があり,1人の異教徒もないので静穏であること,住院から小銃の着弾距離の高くよい立地の所に「岬の聖母の会堂」があることを伝えている(1568年10月20日アルメイダ書簡/同前)。この地にポルトガル船が入港したのは1567年(永禄10年)で,その後1576年(天正4年)・1579年(同7年)・1580年(同8年)・1582年(同10年)にそれぞれ1〜2隻ずつ入港した。現在の口之津町の唐人町のあたりがかつての上陸地で,南蛮船来航の地として昭和16年県史跡に指定された。港の殷賑をしのばせる,「船が口之津(Cuchinotu)へ入るは,さて目出度い事や」の言葉が記録にある(ロドリゲス日本大文典)。1571年(元亀2年)には口之津にキリシタン3,000人,トルレス神父は当地に7年間滞在し,会堂は2か所と報じられている(1571年10月20日ビレラ書簡/同前)。1579年(天正7年)来日したイエズス会巡察師ヴァリニャーノは,同年この地に宣教師を召集して口之津会議を開き,日本布教の方針を定めた。そのヴァリニャーノは1583年(天正11年)の「日本要録」の中で,口之津は有馬から2里の海港で住民は古くからの教徒であり,現在は周辺の土地とともに有馬の司祭に委ねられている,としている(ヴァリニャーノ日本巡察記)。布教の中心が有馬に,交易地が長崎に移りはしたが,その後も口之津は信者の拠点となり,1584年(天正12年)の竜造寺に対する有馬・島津軍の戦いの時には,日本の教会を扶養する物資の大半が口之津の教会に置かれていたので,宣教師が警戒に当たった(フロイス日本史10)。この地の教団はその後も存続し,豊臣秀吉のバテレン追放令の後も,新たに洗礼を受ける者が多数いた(同前11)。1593年(文禄2年),口之津の町は朝鮮から帰国した人物を発生源に町全体にペストのような伝染病が広がり,多くの患者が隔離され死んだという(同前5)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448029
最終更新日:2009-03-01




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