ケータイ辞書JLogosロゴ 神代西村(近世)


長崎県>国見町

江戸期〜明治15年の村名肥前国高来【たかき】郡のうち西神代村ともいい(元禄郷帳・宝暦郷村帳・天明村々目録・天保郷帳),西高代村とも書き(正保国絵図),またたんに西村ともいう(旧高旧領)島原半島の北部に位置し,鳥甲山の西北斜面を頂点に真北に緩斜面が続いて諫早【いさはや】湾(有明海)に臨む佐賀藩神代領神代郷に属す神代鍋島氏の本拠地で,地内の神代町には館があり,また陪臣などが居住し,小城下町としての景観を呈していた「正保国絵図」「元禄郷帳」「天保郷帳」では西神代村・古賀村・井尻村(正保国絵図では伊尻村と見える)の3か村に分かれて記載されているが,この場合には西神代村が本村,古賀村と井尻村が当村の枝村にあたる幕府に対してはこのように3か村に分けて届け出ていたが,佐賀藩領内では3か村を西神代村一村として扱われていたのである「旧高旧領」では西村一村しか記されていない村高は,「正保国絵図」「天明村々目録」ではともに西神代(西高代)村702石余・古賀村154石余・井尻(伊尻)村113石余,「天保郷帳」では西神代村923石余・古賀村203石余・井尻村150石余,「旧高旧領」では863石余「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」ではともに給人は鍋島弥平左衛門,地米高は675石余神代町を除く村内はいくつかの小村に分かれているが,安永年間には北之崎村・井尻村・油手村・古賀村・五品村・片田原村・大乗村・東小路村・西小路村に分かれ,その後平馬村と上古賀村が加わった(神代日記)「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」では西神代村の小村として北ノ崎村・井尻村・油手村・古賀村・ごひん村・片田原村・大乗村・東小路村・西小路村があげられ,別に上古賀村の名が記されている幕末頃には小村が再編成され,上古賀村・(片田)原村・(西)里に集約される傾向がうかがえる嘉永2年の地調子によれば,田数94町8反余・地米627石余,畠数55町9反余・地米92石余,竈数334,うち給人99・被官3(酒屋1)・寺4・社家1・山伏1・商家8・大工1・鍛冶2・役懸り8,人高は1,427(男718・女709),作馬146疋とある(同前)陪臣団の集住のほか商人・職人の居住も認められるが,このうち館から海辺にかけては神代町(津)と呼ばれ,当村内ではあっても行政的には区別されていた村政は神代請役所の郡方の支配のもとに庄屋と村役によって行われた庄屋は下村氏の世襲で,同氏は物成1石8斗の給人(明和7年御家中配分寺社石高帳)村役として2〜3名の咾【おとな】・散使がおり,ほかに境目方・山番役の百姓および治安を担当する士分の村横目1名(樋渡氏)がいた庄屋の補佐役である咾は,村内の有力農民から選ばれ相続する場合が多い神代町は戸数135,うち町分115・古町分20からなるが(文化9年測量師通路記録),このうち給人屋敷が過半を占め,給人以外の戸数は42軒のみで,ほかに御用屋敷と八幡社があった(文政9年高来郡神代町屋敷割帳)町政は別当・乙名・散使各1名が当り,文政年間頃の町別当は横田氏乙名・散使は町役ともいい,被官(給人の下)身分から指名された町方の小名には向町・田町・新町があった(神代日記・宝暦郷村帳・天明郷村帳)鎮守は熊野権現社で,寛永17年の建立また北崎の天満宮は天保14年神代鍋島氏の祖信房の霊を合祀し,明治初年に神代神社と改称し村社に昇格神代町の鎮守は八幡宮で,宮司は山伏覚円坊同じく山伏玉林坊内には彦山権現社(のち片田に移転),ほかに太神宮・稲荷社・琴平社・淡島神社・八天狗・大乗山神・普賢山がある曹洞宗桃源山常春寺は神代鍋島氏の菩提寺で,元禄6年4代領主嵩就の建立真言宗御室派慈雲山長栄寺は神代鍋島氏の祈祷所で,元和7年建立と伝えられるなお,同寺境内のヒイラギの巨木は県天然記念物に指定されている崇栄山光明寺は浄土宗,西蓮山教円寺は浄土真宗西本願寺派で,ともに檀家は多いほかに次郎代石仏・弁財天がある(神代鍋島文書ほか)明治4年佐賀県,伊万里県を経て,同5年長崎県に所属同11年南高来郡に属す明治6年小路に神代(西村)小学校開校,生徒82(男のみ)同9年片田名に玻瑠(原)小学校設立(学務課事務簿)明治7年神代郵便役所設置「郡村誌」によれば,村の幅員は南北2里2町30間・東西20町,地勢は「南方ニ鳥兜〈土黒村〉・吾妻〈千々石村〉両山ノ山勢ヲ負テ北方ニ傾キ海ニ臨ム,邱壑ノ小高低アリト雖トモ村落左右平地ニ連リ率ムネ平坦,運輸便利,薪炭僅ニ足ル」,地味は「赤土アリ,黒土アリ,赤土黒色ヲ帯ルアリ,地質善シ,字川北八沙鹵多ク地質劣ル,稲粱ニ宜ク大豆ニ適ス,桑ニ宜シ,水利ニ便ニ田方往々旱損」とあり,村内は川北・西里・神代・上古賀・片田に分かれ,税地は田97町余・畑144町余・宅地12町余・山林10町余の合計264町余,改正反別は田125町余・畑184町余・宅地27町余・山林(未定)・雑種地3反余の合計337町余,地租は米741石余,賦金は10円余,国税金は190円余,改正租金は2,309円余,戸数は本籍455・社7(村社1・雑社6)・寺4の合計466,人口は男954・女1,039の合計1,993,牛20・馬250,船31(50石積1・回船2・漁船28)また,学校は神代小学校(生徒数男76・女24),玻瑠小学校(生徒数男22・女1)が設置され,神代町には神代郵便局があり,神社は郷社の熊野神社,村社の八幡神社のほか,神代神社・尾上神社・英彦山神社・琴平神社・新村神社が鎮座,寺は曹洞宗桃源山常春寺・真言宗古義派慈雲山長栄寺・浄土宗鎮西派崇栄山光明寺・真宗西本願寺派西蓮山教円寺があり,古跡として神代城跡(別名蓑鶴城)・尾上古城跡が残り,民業は農業のほかは商業に55人・工業に20人・漁業に20人が従事,物産は牛3頭・馬60頭(諫早・佐賀へ出す)・櫨約550斤(蝋を製して大阪へ出す)・蚕糸約3貫500目(肥後へ出す)のほか索麺・西瓜・烟草・蓮根・鳥・芋を少々移出し,また米穀・大豆・菜種・白木緬を産すると記される明治15年神代村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448110
最終更新日:2009-03-01




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