ケータイ辞書JLogosロゴ 神浦(中世)


長崎県>外海町

 織豊期に見える地名。肥前国彼杵郡のうち。1570年(元亀元年)来日したイエズス会日本布教長カブラル神父が,その年の冬のはじめにイエズス会士たちを伴って戸町・手熊・式見・三重・神浦など西彼杵半島各地を布教のため巡訪した時,神浦(Canora)の殿(神浦正信)は未信者だったが,この時説教を聞き,夫人と子供,伯父ならびに一族とともに洗礼を受けた(1571年10月16日フィゲイレド書簡/通信下・長崎市史西洋部)。1592年(文禄元年)イエズス会巡察師ヴァリニャーノは日本布教に新組織を作り,長崎方面には司祭館が古賀・時津・神浦に作られ,神父・修道士各1人が住んで各々4,000〜5,000人の教徒を司牧した(フロイス日本史12)。イエズス会の史料では神浦は外海【そとめ】とほぼ同義語に用いられている。ところで,神浦を含む外海地方は竜造寺氏に一時支配され,天正12年には,薩摩の島津氏を後盾にもつ有馬氏の手中に入ったが,同14年には大村純忠はこの地を回復している。年未詳の正月27日の大村純忠書状写によれば,福田兼次に「神浦」への出陣を命じたことが知られるが,この戦いは,この外海回復戦であったと考えられる(福田文書/中世九州社会史の研究)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448125
最終更新日:2009-03-01




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