- JLogos検索辞書>
- 国分郷(中世)とは
「国分郷(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 国分郷(中世) 鎌倉期に見える郷名奈良のうち東大寺七郷建久4年10月10日付珍成守家地売券(讃岐金比羅宮所蔵文書/鎌遺694)に家地の所在地として「在東大寺国分押上〈河北辺奥〉」,同8年5月9日付僧金徳家地売券(東大寺文書/鎌遺914)には家地の所在地として「在東大寺国分郷押上辻子之内〈南辺〉」とあるまた永仁2年5月3日付頼玄家地売券(東京大学所蔵東大寺文書/鎌遺18541)には「在東大寺国分里押上河北辺」と見える当郷名は二条大路に面する東大寺西大門の別称国分門に由来する当初は国分門前を中心に東京極大路に沿って発展したものらしいが,やがて同門の北方を西流する吉城川近辺が開発され,東京極大路から西へ伸びる押上辻子が設けられて,在家が立ち並ぶようになったものと思われる鎌倉後期には郷の中心は押上辻子に移り,国分郷の名称も廃されるに至った(東大寺文書9至徳3年3月23日付権守宗俊減分敷地契約状など/大日古)現在の奈良市押上町に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」