ケータイ辞書JLogosロゴ 佐賀(中世)


長崎県>峰町

 室町期から見える地名。対馬国のうち。三根郡に属す。康安2年4月11日の宗宗香書下写に「正月元さく田二反〈さかにあり〉」と見える(下津八幡宮文書/南北朝遺4358・4359)。この文書は,下津八幡の年中行事の料所を記したもので,最後に「こほりこほりにあり」という記載があり,「さか」が佐賀郡であることが知られる。また,貞治4年11月19日の某書下写によれば「さかのくんし」(佐賀郡司)が八幡宮の大床の材木の役を催促されている(宗家御判物写/南北朝遺4604)。南北朝期のこの段階では,いわゆる対馬八郡体制は成立しておらず,国衙の単位所領の系譜を引く郡があり,佐賀郡もその1つと思われる。ところが,室町初期になると,この郡は再編され,八郡が次第に成立し,佐賀も三根郡に属す。応永8年11月15日付の宗貞茂充行状写(仁位郷御判物写/県史史料編1)に「対馬之島内みねの郡さいちやう地事」として「一所,さか」と見える。応永11年12月15日付の正永書下写(宗家御判物写/同前)に「府八幡宮正月一日御すつりのやく田三根之郡さかの内二反事,いらんのたおやめわたしつくる所也」と見える。応永15年に宗氏7代貞茂が当所に居館を構えて以来,貞盛・成職・貞国の4代78年間にわたって対馬統治の中心となった。集落の西方,亀の内というところに居館の跡と伝えられる場所がある。「海東諸国紀」には「沙加浦〈五百余戸〉」と見え,6人にのぼる受図書人・受職人の居住が確かめられる。この戸数は同じ対馬の三根の650戸に次ぐ数である。日朝通交貿易の一大拠点であったことがわかる。長禄2年2月7日付の宗茂職書下写(歩行御判物帳/同前)によれば,佐賀の浦には日本と外国の船舶が入港したらしく,「殊他国和国之船ニよらす下知之事」の文言が見える。そして,応仁2年8月15日付の宗貞国安堵書下写(三根郷御代々御判物写/同前)によれば,佐賀津には宗像大明神が勧請されていたことがわかる。その場所を大明神浦と呼ぶが,弘安の役における元軍の上陸地点として「高麗史」に見える「世界村大明浦」を,佐賀の大明神浦にあてる説がある。また当地の曹洞宗円通寺は宗貞盛の菩提所で,裏山に貞盛とその一族の墳墓がある。同寺の鐘は無銘であるが明らかに朝鮮鐘で,県文化財に指定されている。宗成職の菩提所妙泉寺は明治4年に廃寺となり,成職の位牌は円通寺に置かれている。なお,当地の佐賀貝塚の上層部分からは北宋銭等が発見されている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448259
最終更新日:2009-03-01




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