ケータイ辞書JLogosロゴ 三町分村(近世)


長崎県>飯盛町

江戸期〜明治初年の村名肥前国高来【たかき】郡のうち三丁分村とも書き,単に三町(丁)分と呼ばれることも多い江ノ浦川流域に位置するはじめ佐賀藩諫早【いさはや】領,寛延3年諫早領主諫早茂行の不調法により上知された14か村の1つとして佐賀本藩領となり,明和4年からは再び諫早領となる諫早郷に属す「正保国絵図」「元禄国絵図」「元禄郷帳」「天明村々目録」「天保郷帳」「旧高旧領」など幕府へ提出した国絵図・郷帳類では江ノ浦村と見え,当村名は記載されないが,佐賀藩の史料である「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」などでは当村と六町分村の名が記されて江ノ浦村の名は見えず,佐賀藩領内では江ノ浦村域を当村と六町分村に分けて把握していた村高は,江ノ浦村としてしか判明せず,当村分は不明給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」ともに諫早豊前(諫早領)257石余諫早領の江戸後期の反別と地米高が記されるものとして天保3年の諫早私領田畑石高帳が知られているが,そのうち6月作成の石高帳(仕直し前)によると,田43町余(地米209石余)・畑10町余(地米22石余)・茶4畝余(地米4斗9升余)・屋舗1反9畝余(地米6斗3升余)・畦4町余(地米3石余)で,合計58町余・地米235石余,次に出来地は田1町余(地米4石余)・畑5町余(地米3石余)で合計6町余・地米7石余,本地・出来地(新地)の総計地米高243石余これは藩から仕直しを求められて次のように改訂され(12月作成分),田43町余(地米234石余)・畑10町余(地米22石余)・屋敷1反9畝余(地米6斗余)で,本地分合計地米高257石余,ほかに出来田1町余(地米4石余)・出来畑5町(地米3石余)で出来地分合計地米高7石余,本地・出来地総計の地米高は264石余となったなお,上記両石高帳とも三町分・六町分には村の字を付していない当村の位置は,嘉永5年の高来郡土師尾村江浦村図(県立長崎図書館蔵)によると,江ノ浦村の東北部に当村名が記入されており,北部から東部にかけての地域が当村の範囲であったと考えられる明治初年江ノ浦村の一部となるこの合併は版籍奉還後の佐賀藩による村仕組の改正に基づいてなされたものと考えられ,中央政権への届出としては郷帳類と同様に江ノ浦村の一部とされたわけである
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448329
最終更新日:2009-03-01




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