ケータイ辞書JLogosロゴ 水下津名(近代)


長崎県>加津佐町

 年不詳〜現在の行政区名。明治22年加津佐村,昭和3年からは加津佐町のうち。水月名とも書き,己ともいう。町役場の所在地。明治7年第6大区下等水月小学校設立,同17年加津佐学区中等水月小学校と改称,同18年中等水月小学校を地内船江に移転し尋常水月小学校と改称,同26年尋常水月小学校を加津佐尋常小学校と改称,同33年口加高等小学校を口之津村境川に設置。昭和10年加津佐小学校に加津佐青年学校併置,昭和51年宮原小学校閉校に伴い加津佐小学校に合併,加津佐東小学校と改称し現在に至る。昭和42年加津佐幼稚園が設置されたほか,ともしび保育園,若木保育園がある。前浜海水浴場は昭和初期頃から上海方面から雲仙へ避暑に来た外国人海水浴客でにぎわい,昭和8年の外国人宿泊客は7〜8月で9,146人にのぼった。現在海岸にB&G加津佐海洋センター艇庫がある。寺院には蓮正寺・巌吼寺がある。蓮正寺は真宗本願寺派で山号は永照山,慶安4年肥後国川尻の釈理堅を開基とし,肥後西光寺の末寺。山門は地内で一番古い建物である。前庭の手水鉢に「弘化四年未九月日山口氏小中」の銘があり,昔,山口の社か寺にあったものを同寺に運んだと伝えられる。補陀山巌吼寺は元は巌吼庵と称したが,昭和17年庵号を改め巌吼寺とした。曹洞宗明峰派に属し,加賀大乗寺の末寺。600余年前大智禅師が水月庵円通寺を開山し,有馬氏の保護を受けていたが,島原の乱の際焼かれて廃絶した。乱後,慶安5年泉州成会寺開山雲山愚白和尚が来村し,大智禅師修行の地岩戸山に小庵を建てたのが始まりである。円通寺跡に大智禅師の墓がある。禅師の遺骨を四分し,生前開創の4か所に埋葬した勤皇大智禅師大梅の塔は,塔の前の円通寺門礎石とともに昭和16年県史跡に指定された。現在忠霊塔の立っている高台を薬師山といい,昔薬師堂があった。温泉神社は雲仙岳の温泉神社を勧請したもので,昔は四面宮と呼ばれた。古伝によれば,加津佐では六反田名字上登竜に分身社を祀ったのが始まりという。なお,上登竜という地名の起源は「神とう留」といわれる。四面宮はその後水月名元四面の地(現在加津佐東小学校前面の丘),正徳元年には水月名玉の浦(今の町役場所在地)に移った。人家が次第に多くなり,四面が汚れ,明治31年現在の地に新築遷宮された。以後,宮ノ町・東宮町・西宮町の地名が起こる。口之津町と加津佐町の境目を境町と呼んでいるが,これは昭和3年の改名で,元は野馬水という。遠い昔,付近に野馬が多く,水を求めて集まってくる所だったのでこの名が起こったと伝えられる。野馬水から赤坂を下りて海岸沿いの松原は近年まで道の左右に松並木が続き,かつての領主有馬氏が菩提寺の天辺円通寺に参拝する時,ここで下馬したので下馬松と名付けられたと言われる。女島は魚見岳とも呼び,魚群を見張る場所で,また頂上には幕末に見張所が置かれ,女島ののろし場といわれる。作家菊田一夫が小学校3年生の時加津佐で生活したことから,昭和37年加津佐町と島原鉄道株式会社の共同で,女島の菊田一夫住居跡に詩碑が建立された。「がしんたれ けふは泣きけり 故郷の 海の青さよ」の碑文がある。その他地内に加津佐郵便局・口之津警察署加津佐派出所・県農業改良普及所・中央公民館・乳ガ浦老人ホーム・加津佐保養センター・島原鉄道加津佐駅がある。須崎のキリシタン墓碑3基(カルワリオ十字紋平蓋石型・浮彫カルワリオ十字紋平蓋石型・慶長18年るいす銘平蓋石型)は昭和2年県史跡に指定された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448482
最終更新日:2009-03-01




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