ケータイ辞書JLogosロゴ 瀬戸浦(中世)


長崎県>芦辺町

 鎌倉期〜戦国期に見える浦名。壱岐国壱岐郡のうち。弘安5年9月9日の北条時定書状に「去年異賊襲来時,七月二日,於壱岐島瀬戸浦令合戦由事,申状并証人起請文令披見畢,可令注進此由於関東候」と見え,弘安の役の際,弘安4年7月2日肥前国御家人竜造寺家清が壱岐島瀬戸浦で戦ったことを報告し,合戦証人の起請文を肥前国守護北条時定に提出し,時定は鎌倉幕府への披露を約束している(竜造寺文書/鎌遺14696)。これについて,「竜造寺系図」には「季時……弘安中蒙古襲来時,季時合戦壱岐島瀬戸浦,顕高名討死」とある(大宰府・太宰府天満宮史料8)。なお,「伏敵編」の竜造寺氏の項に「蒙古寇紀曰,竜造寺記,竜造寺季時,弘安中蒙古役,戦於壱岐瀬戸浦有功,然則此役会戦者亦当季時」と見え,竜造寺季時は瀬戸浦で合戦し,討死したことが知られる(同前)。この壱岐島瀬戸浦の合戦については,このほかにも数通の文書がある(鎌遺14418・14583・14611・14702)。弘安の役の直後,壱岐の瀬戸浦・椙原【すぎはら】村は筑前国八幡筥崎宮の神領として寄進されたと推定され,その預所職は少弐景資であった。弘安8年の岩門合戦で景資は自害し,瀬戸浦預所職は薩摩太郎左衛門尉盛房に宛行われた(比志島文書/鎌遺16130)。南北朝期に入り,観応2年12月21日の足利直冬は志佐有に,八幡筥崎宮領の瀬戸・椙原両村に対する松浦小豆弥五郎・大島三郎左衛門尉・町田平三などの押妨狼藉を退け,筥崎宮雑掌に下地を沙汰付するよう命じている(田村文書/南北朝遺3291)。「正平神領図」には,箱崎郷八幡大神の神領の中に瀬戸浦が見える(壱岐史拾遺)。「海東諸国紀」には壱岐十四浦の1つとして「世渡浦〈三十余戸〉」と記し,同書の「一岐島之図」に風本浦と瀬戸浦を結ぶ航路が記されている。下って,「宿蘆稿」文禄2年9月3日条に「午刻泊船於壱州箱崎瀬戸浦也」と見え,同書文禄2年9月10日条によれば,辰刻に瀬戸浦を出航し,申刻に筑前の相島に着いている(続群13下)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448517
最終更新日:2009-03-01




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