ケータイ辞書JLogosロゴ 高浜(中世)


長崎県>高島町

 鎌倉期から見える地名。肥前国彼杵【そのぎ】郡彼杵荘のうち。高浜村ともある。弘安5年9月日の入道二品親王(仁和寺性助)庁下文に,「可早依本司例,任証文理,被充行新地頭平時仲,戸八浦内切杭・高浜事」と見える(深堀文書/佐賀県史料集成4)。同文書は,新地頭深堀時仲に,戸町浦内切杭・高浜を安堵したものである。この地の領主権をめぐっては,肥前国在地御家人戸町浦本領主戸町氏と,承久の乱勲功地の替として,建長7年新たに戸町浦の地頭職に補任された上総国御家人深堀氏との間で,長年にわたって争いが繰り広げられていた。両者の相論は関東だけでなく,彼杵荘の本家であった仁和寺にも訴えられたが,本家仁和寺も関東下文を支証とする深堀氏の地頭職を追認せざるを得ず,この親王庁の下文によって,深堀氏の在地の基盤は確立したといえる。しかし正応2年11月日の深堀時仲代沙弥某申状によれば,切杭・高浜に対する肥前国御家人峰藤次の押妨が知られ(同前),この高浜をめぐる戸町氏と深堀氏との抗争も止んだ訳ではなかった。文保元年6月15・21日には,戸町俊能の訴状に関し,深堀仲家に出頭を命じた遂義・遂郷連署召文が残されており,翌2年5月29日には,貝木・竹留・鹿尾・棹浦・切杭・高浜を深堀氏の領知とし,香焼【こうやぎ】・大浦・末島・中島・影呂宇島を戸町氏分とし,杉浦は折半する,という内容の和与が結ばれ,同年6月6日の鎮西下知状によって和与の裁許を受けている(同前)。またこれと同日付の鎮西下知状で,彼杵荘戸町浦と伊佐早荘肥御崎寺との間の切杭・高浜の帰属をめぐる深堀時仲と石塚寂円との堺相論も裁許され,深堀氏の領有,即ち彼杵荘への帰属が確認されている(同前)。なお,文永年間のものと思われる年欠8月11日の石塚寂然請文に,既に「肥御崎寺領内切杭・高浜」と見え,この堺相論も深堀氏の戸町浦入部以来の懸案であったことがうかがわれるが,この紛争は文保2年の裁許の後もくすぶり,元亨4年10月25日には,この問題は裁決済みにもかかわらず,石塚寂円が問状の給付を受けたのは姧曲であるとする鎮西御教書案が残されている(同前)。ところでこのような対外的な高浜に対する深堀氏の領主権の確立と並行して,深堀氏内部の所領所職の分割相続も進んだ。正応2年,惣領時光は,従来の代官支配方式による戸町浦地頭職経営から,庶子配分支配方式による経営への転換を行い,全所領所職の分割配分を行った。その一環として,同年6月26日の深堀明心〈時光〉同時仲連署譲状において,高浜以下は次男清光に譲られた(同前)。しかし正安4年5月24日の深堀時願(時仲)・同時通連署譲状によれば,高浜は時光嫡子時仲から子息時綱に譲られており,清光(時直)死後は嫡子時仲の支配下に置かれていたことがうかがわれる(同前)。その後,高浜は時綱から政綱へと譲与され,政綱は,正中の変に際しては,幕府の軍勢催促に応じて,博多の鎮西探題の下に馳せ参じ,元亨4年10月18日「肥前国戸町浦内高浜地頭」として着到状を提出し,北条英時の証判を得ているが,9年後の幕府滅亡にあたっては,鎮西探題北条英時の襲撃に参加し,元弘3年7月28日に「肥前国高浜地頭」として着到状を提出している(同前)。正慶3年閏2月19日には,戸町浦内高浜村の惣領職・本証文以下が政綱から広綱に譲られた(同前)。政綱は上洛して足利尊氏からも証判を得ており,建武元年6月には,建武新政府に対する軍忠を理由に所領安堵を求め,戸八浦内高浜地頭職に関して,新政府から当知行安堵を受けている(同前)。そして正平元年8月22日の深堀明智(政綱)・同明願(仲家)連署譲状案によれば,再度いやたろう(広綱)に高浜村惣領職が譲与され,公事は兄弟で分限に応じて勤仕すべきことが定め置かれた(同前)。さらに同11年8月22日には,いま一度深堀明智(政綱)・同明願(仲家)連署譲状案が書かれ,高浜村が「みたやす」に譲られているが,幼稚の間は皆で支え,成人後は「みたやす」に支配させるべき旨が記されていることから,広綱の子孫に当たる者であろう(同前)。明徳2年2月16日には,政綱から譲られた高浜の田地を,「みやうおん」が,嫡子がないので「ひうこ五らう」を「いや五ろう(政綱)」の養子とする形で,譲与したことが知られている(同前)。下って戦国期末の年未詳8月20日の有馬義直・同義純連署書状写に「野母・高浜」の地名が見える(福田文書/中世九州社会史の研究)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7448600
最終更新日:2009-03-01




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